悼む人

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天童荒太著の小説。第140回(2008下半期)直木賞受賞作。7年前、テレビのニュースか対談番組かに出演して「悼むとはどういうことか」について語っていたのを記憶している。亡くなった人が、だれを愛し、だれに愛され、何をして感謝されたかを知ることが悼みの本質である・・・と話していたのがいまも印象に残っている。

還暦を過ぎると、身近な人がどんどん亡くなっていくようになった。家族・親族、友人・知人だけでなく、著名人・芸能人たちもどんどんなくなっていく。あの人もこの人も亡くなったと思うと、いずれは自分もその仲間になる、つまり必ず来る自分の死というものを意識することが多くなった。

奈良の実家では、各家庭に有線のスピーカーが設置されている。週に一回ほど村の総代さんから通知の放送がある。村人の集まりや催し物、露張りの通知もあるが、圧倒的(8~9割)に多いのが訃報(通夜・葬儀の案内)である。

田舎に暮らすと分かるが、家計の支出の中で大きな比率を占めるのが香典である。10年ほど前に村に葬祭場ができてからは、自宅で葬儀をすることが次第に減り、香典(とお返し)を辞退するケースも多くなった。高齢化で年金(月3~5万円)暮らしの人が多い村では、毎月1万円を超える香典代は大きな負担でもあった。

実家で暮らした少年時代からよく知っている村人がどんどん亡くなっていった。親族でも、この2年間で、お世話になった叔父さん、叔母さんが5人も亡くなってしまった。健在なのは母方の伯父一人になってしまった。その伯父も93歳、いつあの世に旅立ってもおかしくない歳である。

「悼む人」は、人生と死と愛を考える難題に真摯に向き合った作品である。亡き人を悼むという行為を考え、それをいま生きている自分に当てはめることもできる。自分はだれを愛し、誰に愛され、何をして感謝されたか?それを振り返ることによって、自分が生きた人生の意義を考え、生きて良かった、幸せだったと思えるなにかを見出せるかもしれない。そして、それが自分の安らかな死につながっていくのかも知れない。

主人公・静人に語らせたコトバ

「殺人事件や、酔っぱらい運転などの悪質な交通犯罪には、感情的にもなります。
でも怒りや悔しさをつのらせていくと、亡くなった人ではなく、事件や事故という出来事のほうを、犯人のほうを、より覚えてしまうことに気がついたんです。

たとえば、亡くなった子どもの名前より、
その子を手にかけた犯人の名前のほうが先に浮かぶ、というようなことです。

亡くなった人の人生の本質は、死に方ではなくて、
誰を愛し、誰に愛され、何をして人に感謝されたかにあるのではないかと、
亡くなった人々を訪ね歩くうちに、気づかされたんです。」