孤独死

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眠ったまま新年を迎えた。物心がついてからの人生で初めてのことである。古来より稀だといわれた年齢に達した。眠ったままあの世に旅立つことがあっても不思議ではない歳だ。眠っているときに心臓発作や脳溢血がおき、そのまま死ぬこともあるだろう。独り暮らしだった親友がそうだった。

彼は定年退職(60歳)直前に突然死した。残っていたいた有給交通事故で休暇をとって函館に旅する予定だった。旅に出る日の早朝に眠ったまま心臓発作で亡くなった。一緒に旅をする予定だった後輩が、いつまで待っても来ない彼を心配してアパートを訪ね、亡くなっている彼を発見したのだと聞いた。

突然死した人の話は聞く。事故で亡くなった友人もいる。世の中では、何万人もの人が孤独死している。死んだまま何ヶ月も発見されなかった人もたくさんある。社会問題になっておりマスコミが孤独死の問題を何度も取り上げている。テレビや新聞・雑誌の中でのことではないと実感し、ショックを受けたのが親友の突然死だった。息を引き取ったその日のうちに発見されたのがせめてもの救いだった。

独り暮らしのすべての人に孤独死のリスクがある。本人だけでなく、その家族・友人も無関係ではない。離れて暮らす老いた父や母や叔父叔母がいる人にとっては、孤独死は他人事ではない身近の問題である。ただ、そのことに気がついていない人もいることだろう。人の死は非日常の出来事だから。

私が「死」を意識するようになったのは還暦を過ぎてからである。年老いた近親者だけでなく、少年時代から知っている村の人たちがどんどん亡くなっていくようになると人の死というものを意識せざるを得なくなる。実家にいると数週間に一度は村の有線放送で、「XXさんの母YYさんの葬儀(通夜・葬式)がX月Y日Z時から執り行われます」というアナウンスがある。

自分自身にも死が必ず訪れる。その前に、残された家族・友人に迷惑をかけないように、また自分の一生の総決算として、死の準備をしようということがたびたびマスコミ報道されるようになった。いわゆる「終活」である。生前葬を行う人も増えている。癌に侵された友人は、生前戒名を受けるために一週間寺で修業した。

還暦を過ぎてから「終活」をしようと思ったが、なかなか手につかない。この一年取り掛かったのは写真の整理で、ブログ形式の写真・動画・地図を含む記事を書いている。ただし、そのほとんどが過去7年間に横浜~奈良を行き来する途中で下車してぶらりと歩く旅で撮った写真である。

若い頃に訪れたことのある場所については、終活を意識して思い出を書き添えている。Movable Typeでタグや検索ワード付加するようにしている。これにより関連記事を一まとめにできる。そのうえで終活に含める記事をまとめようと思っている。そんなに時間的余裕はないのだと最近つくづく思う。

古希ともなれば思い出だけでも余生を送っていける。ただ、死ぬのはまだ早いというのは誤りだ。いつ死が自分に襲い掛かってもおかしくない年齢である。まだ時間があると終活を先延ばしにする余裕はなくなった。終活をするのは年長者だけではない。若くてもいつ不慮の死(事故や重病など)を遂げるかもしれないからだ。

終活のイベントでは30前後の女性も40代の男性も参加している。30代初めの知人も参加し、展示されていた棺桶に入り横たわって感触を確認したと話してくれた。彼らは人の死、自分の死を日常的に考えているのかもしれない。私が日常的に考えるようになったのはこの数年である。

いまは残された人生が日々少なくなっていることに焦りさえ覚えている。とにかく「時が過ぎる」のが早く感じる。一年は一ヶ月くらいの感覚である。通勤者ではないから曜日や祝祭日の感覚もなくなっている。今、すでに2017年になっていることすら知らなかった自分に驚いている。

(執筆中断)「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」がはじまった

「それなりに年齢を重ねてれば分かることがある。歳をとるといま自分が抱えているものよりも、思い出のほうが重くなる。そして死ぬ瞬間、人に残されるのは思い出だけである。人は思い出だけを抱えて死んでいく。」