漱石が見つめた近代

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ETV特集「漱石が見つめた近代~没後100年 姜尚中がゆく~」

夏目漱石内坪井旧居

1896年(明治29年)から4年3ヶ月暮らす。ここで結婚し長女が生れる。漱石が五高の開校記念日で読んだ祝辞の原稿が残る。
「夫れ教育は建国の基礎にして
 師弟の和熟は育英の大本たり」

タワー・ブリッジ

1900年(明治33年)ロンドンに留学。当時ロンドンは人口600万人の世界最大の都市。無数の群衆と行き交う馬車の群れ、巨大な蒸気機関、石とレンガの巨大建築群、見るもの聞くものに圧倒され動転したのではないか?
橋を開閉する当時の蒸気機関が展示され、当時のロンドン市内の様子を撮影した映画が流されている。いま我々が見ても、巨大な橋や蒸気機関に圧倒される。
漱石は日本で知っていた西洋文明を生身で実体験する。ある種のイニシエーション(通過儀礼)だった。

我が身を振り返れば、はじめて金門橋を目の前にしたときの感動と驚きに似たようなものだったのではないか?見たのは、明石海峡大橋より四半世紀も前のことだった。それが戦前の1933年~1937年に建設されたことが信じられなかった。それほど日米の国力の差があったということだ。

ロンドン大学

漱石は国から英語研究を命じられて留学。ロンドン大学で聴講するが、次第に足が遠のいていく。やがて関心は、「開化」、「文明」、「文芸」などに向かい、語学研究から離れていく。

「日本ハ西洋ニ圧迫セラレツツアル」
「文芸ノ事ニ於テハ 余ハ余ガニ日本人トシテノ立脚地ヨリ 此圧迫ニ反抗セントス」

欧米の近代化に対抗しようとした漱石は、大学に行かず独学を始める。その頃よく通ったのがカーライル博物館である。

Carlyles house

漱石が何度も足を運んだ場所。此の体験をもとに「カーライル博物館」を著している。

ト-マス・カーライル(Thomas Carlyle、 1795年12月4日 - 1881年2月5日)はヴィクトリア時代を代表する言論人(歴史家・評論家)で、Dickens, Ruskin, Tennyson、日本では内村鑑三や新渡戸稲造などに多大な影響を与えた人物。1834年にスコットランドからロンドンに移住した。
「この国民にしてこの政府あり」

彼の著作「英雄崇拝論」は明治20年代に翻訳されており、漱石も読んでいたのだろう。ロンドンに来たときカーライルは亡くなっていたが、その旧居を4度訪ねた。カーライルの蔵書や遺品を見に来ていた。訪問ノートに漱石の署名が残されている。

カーライルは近代文明を批判した。世間や学界を拒否し、世俗的な功利主義、商業主義に対するシニカル(冷笑的)な文明批評をした。
「機械主義の風潮が人間を窒息させている。世界はじつに人間を粉々に挽きつぶすそうとしている」(衣装哲学)

セントポール大聖堂

当時イギリスはボーア人から金とダイアモンドの利権を奪うため南アフリカに出兵し植民地にしようとしていた。第二次ボーア戦争(1899年~1902年)

ボーア戦争から帰還した義勇兵たちが、戦勝をを感謝する礼拝をセントポール大聖堂で行った。その行進を漱石も見ていたのだろう。
「全国ノ寺院ニテ Thanksgiving ヲ行フ 
自ラ戦端ヲ啓キ 自ラ幾多ノ生命ヲ殺シ
自ラ巨万ノ財ヲツイヤシ 而シテ神ニ謝ス
何ヲ謝セントスルヤ 馬鹿馬鹿シキコトナリ」(1902年6月1日のノート)

漱石にとって文明は光り輝くもので人間を幸せにしてくれるだけでなく、その裏側には悲惨さをもたらす、人間の愚かさを作り出すものだということを的確に見抜いていた。ボーア戦争も、腕力で物事を遂行し自分の領土を拡張し野心を遂げる。そうした増長した文明のやり方、しかも荘厳な儀式で装飾されるということに鋭い感覚を持って、強い違和感を感じた。

この時代、欧米列強の進出にインドや中国などアジアの国々は苦しんでいた。漱石はロンドンで中国人を蔑視する風潮に反発を覚える。
「支那人ハ嫌ダガ 日本人ハ好キダト云フ
之ヲ聞キ嬉シガルハ 世話ニナッタ隣ノ悪口ヲ
面白イト思ッテ 自分方ガ景気ガヨイト云フ御世辞ヲ
有難ガル軽薄ナ根性ナリ」(日記1901年3月5日)

大連賓館

漱石縁の旧ヤマトホテル。1909年9月に南満鉄総裁の中村是公の招待で満州(旅順~ハルピン)を20日間旅する。大連は人口600万人、中国北部の海の玄関口として発展。

かつて大広場に建っていた銅像は初代関東都督府総督の大島義昌陸軍大将(1850~1926)。
1904年5月30日、大連に無血入城した名古屋第三師団・歩兵第六聯隊の師団長。ちなみに安倍晋三首相は子孫の一人で玄孫(やしゃご)にあたる。

喫茶「大和」には漱石の肖像が掲げられ、漱石が飲んだ当時の味のコーヒーが飲める。

中国銀行遼寧省分行

日本唯一の外国為替管理銀行だった横浜正金銀行の大連支店。妻木頼黄設計。

東鶏冠山北堡塁

ロシアが築いた要塞。漱石は日露戦争から4年後、従軍した軍人に案内され、ここを見ている。
東鶏冠山北堡塁
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ロシアが築いた要塞。漱石は日露戦争から4年後、従軍した軍人に案内され、ここを見ている。

203高地

日露戦争最大の激戦地。乃木希典が何度も攻撃を仕掛け、無防備な兵6万人が犠牲になった。三回目の総攻撃では次男が戦死している。

占領後に日本軍が据えた280ミリ砲が復元されている。

동구릉(東九陵)

閔妃(びんひ、みんひ、1851年10月19日 - 1895年10月8日)の最初の墓。1909年、漱石が訪れた場所。
1919年高宗が亡くなったとき洪陵に移葬(明成皇后として)された。

漱石は、ミンヒ暗殺を歓迎するような言葉を記した手紙を正岡子規に送っている。日本に反抗したミンヒを嫌っていた節がある。

Ha Er Bin Zhan ハルビン

1909年10月26日、安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を射殺。この一ヶ月前に漱石はここに降り立った。

旅順日俄監獄旧址博物館

伊藤博文を暗殺した安重根の裁判が旅順で行われた。そのときに収監された監獄が博物館になっている。

漱石はこの事件に大きな関心を抱き、裁判記録を取り寄せている。その後、小説「門」の中で言及している。

北京魯迅博物館

魯迅(1881年9月25日 - 1936年10月19日)と漱石の関係を研究している貴州大学の李国棟教授はいう。魯迅は漱石をとても崇拝していたので、漱石の住んだ千駄木の家を借りて、弟たちと一緒に住んだ。

魯迅は明らかに漱石の影響を受けたといえる。漱石と同じように魯迅も反体制派の色を持っており、当時の政府が進めた近代化政策に批判的だった。

漱石は近代化、西洋文明中心主義にどう立ち向かうか悩んだ。その結果を文学として表現した。そのことは、非西洋世界から見ると非常に大事な遺産。その遺産に触れ、影響を受けたのが中国の魯迅、韓国のイ・グァンス(李 光洙、挑戦近代文学の祖)。

漱石は「野分」の中で、「西洋の理想に圧倒せられて眼がくらむ日本人は、ある程度に於いて皆奴隷である」といっている。

同じアジアの国から見れば、近代化は西洋から来たもので、外発的な開化である。「一言にして云えば、現代日本の開化は皮相上滑りの開化である」(現代日本の開化と題する講演、明治44年8月)

魯迅は、中国の国民は全部奴隷だと思った。自分なりの考え方や価値観がない。統治者に好きなだけ操られる。漱石と同じ認識であった。

内発か外発かという、漱石の問題提起は、今も考えなければならない東アジアの重要な課題なのである。

Seoul National University

韓国における漱石研究の第一人者ユン・サンイン教授は、日本留学をしていた韓国の文学者の多くが漱石を読んでいたと考えている。

漱石は近代化、西洋文明中心主義にどう立ち向かうか悩んだ。その結果を日本語で文学として表現した。そのことは、非西洋世界から見ると非常に大事な遺産。その遺産に触れ、影響を受けたのが中国の魯迅、韓国のイ・グァンス(李 光洙、挑戦近代文学の祖)。

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