奨学金滞納32万人

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奨学金滞納者の数は32万人に及ぶ。奨学金を受けている人の約1割に相当する。奨学金はイギリスではscholarshipだが、アメリカではstudent loanである。つまり学費を納め、学生生活を送るために必要なお金を借金することだ。

何年か前にも、不況で就職ができず、奨学金(借金)を返済できず、自己破産する人たちもいるということが問題になった。この話題で記事を書いたことがあるが、最近でもその事情は変わっていないということだ。

私も奨学金をもらって大学に行った一人だ。半世紀前の話である。たしか育英奨学金といったと思う。受給する資格要件を満たしている必要がある。ある程度以上の学力があること、家庭の経済力がないことが必須条件だったと思う。

幸いにして受給できた。一般奨学金(月3000円)と特別奨学金(月8000円)があり、特別奨学金を受けられた。返済は大学卒業後で、それまでは利子とか延滞金などはゼロだった。一般奨学金は全額返済するが、特別奨学金の場合は一般奨学金分だけを返済すればよかった。つまり、月5000円は無償提供されたということだ。

当時の大卒初任給は25000円くらいだったと思う。毎年給料は増え、ボーナスもあったから奨学金(14万4000円)の返済能力は十分あった。返済方法は忘れたが4年以内に返済が終わったと思う。

実家からの金銭援助無しに学生生活をおくるためにバイトをしなければならなかったが、それほどの負担はなかった。学費は月1000円でアパート代は6000円くらいだったと思う。光熱費も含めて、奨学金でほぼ足りた。徒歩通学だったから交通費はゼロ。大きな出費は食費と遊興費だったが、うどん一杯30円くらいの時代だから、月1万円もあれば悠々だった。バイト収入が減ったときは毎日うどんで済ませば食いつなぐことができた。

幸いなことに家庭教師の仕事は絶えることなく得られた。たしか週2回、1回2~3時間くらいで月5000円が相場だったと思う。裕福な茶問屋の姉と弟の二人を同時に教えていたので月8000円いただいた。夕食とおやつ付きだったので幸運だった。姉が大学に入って習い始めたドイツ語も教えた!?教えるというのはおこがましく、実際には一緒にかじったようなものだ。

奨学金と家庭教師代あわせて16,000円もあれば貧乏学生とはいえない。もちろん、いろんな活動や交際費、遊興費などをいれるとそれだけでは足りないので、いろんなアルバイトをした。

時給はいいが汚れ仕事だったのは、セメント袋を肩に担いで運ぶバイトだった。全身セメントの粉をかぶる。粉塵を吸い込みすぎると肺病の危険もあった。体力をあまり使わなくても良かったのは、高圧線に使う巨大な電線の束を重機を使ってトラックに積んで運ぶ仕事だった。運ぶときは助手席に座っていればよかった。過去に一番つらかったバイトは高校時代のドカタ仕事だった。朝5時から現場に行き、土を砂利をスコップでダンプカーで積み込む仕事だ。足元から肩の高さまであげるので足腰が悲鳴を上げたものだ。

話は逸れるが、楽しいバイトはダンスパーティの企画運営だった。残念ながら自分の収入にはならず全額部費(機械体操部)として使った。一回生のとき、学生体操連盟のランクで二部から三部に格下げになりかけていた。三部に転落すると大学からの部活動費はゼロになる。みんな必死で練習した。平行棒で上腕部内側が血で真っ赤になり、内出血で紫になり、そして黄土色に変色していった。そうなればもう大丈夫だった。鉄棒で指の付け根の皮膚は破け、早く治すためにヨーチンをぶっかけ、痛みを忘れるために全力疾走した。鞍馬では、手のひらの皮膚が半分近くもめくれたこともあった。さすがにこのときは3日以上練習ができなくなった。

おもいっきり練習ができなかった理由のひとつは、古い機危惧が壊れないかという不安があったことだ。鉄棒や吊り輪では落下することもあるが、安全を守ってくれる厚さのマットもなかった。先ずはマットを買おうということで、部員全員でアルバイトをして部費を稼いだ。

その一環でダンスパーティを企画運営したということだ。大阪の富士会館とか京都の祇園会館とかが学生主催のダンスパーティ(ダンパと呼んだ)会場になった。体操連盟(学連と呼んだ)や旧帝大戦のつながりで、各地の体操仲間がいた。会場を押さえたら、参加者を募るのが大きな仕事だ。これも意外と楽だった。手分けして女子大の校門に立ってパーティ券を売りさばいた。女性を確保すれば男は自然と集まる。

女子大生勧誘に力を入れすぎて男子が少なかったときもある。そんなときは主催者メンバがお客様のお相手をする。せっかく来てくれた女子学生を「壁の花」にするわけにはいかないのである。そんな理由で私も社交ダンスを習った。といっても、社交ダンスが得意な同期の男に、ステップを教えてもらっただけだ。ブルース、ルンバ、ジルバが基本だったと思う。タンゴは難しくて論外だった。一番簡単なのがチークダンスだ。抱き合って体を揺らしているだけで良い。

さて、「壁の花」になりかけて女性に声をかけて誘う。初対面だから最初は恥ずかしがっている。「大丈夫です。教えますから。」などとえらそうに自信ありげに誘う。こっちも初心者でうまく踊れないのだが。ぎこちなく踊っていると、いつのまにか様になってきて、なんか変だと思ったら私のほうが女性にリードされていた。いまは笑い話ですむが、そのときは冷や汗ものだった。そんなことがあった後は、気負いすることなく正直に下手は下手なりにお相手をした。

パーティが終わったあとは、男が女性を送っていくのが慣例となっていた。駅までの場合があれば、自宅や寮の近くまで送っていくこともある。電車で1時間もかかるようなところまで送っていったら帰りの終電を逃してしまったということもある。女子寮まで送って行ったら門が閉まっていた。当時の門限は夜10時が普通だったと思う。2メートル足らずの塀だったので、乗り越える手助けをしたものだ。

そんなことが笑い話になり、お互いに親近感をもつきっかけにもなった。当時のダンパは、いまでいう婚活の前哨戦のようなものだったのだろう。晩生な男にはそんな発想は皆無だったが。現在巷で聞く婚活イベントよりも半世紀前の学生のダンパのほうが充実していたのかもしれないと思った。婚活パーティは団体戦みたいだが、ダンパは個人戦のようなものだ。体を寄せ合って二人だけで踊りながら話せるのだから、互いを知る密度が高い。気に入れば終盤はチークダンスで締めくくり、その後送って行く。携帯電話もLINEもメールもない時代だから、面と向かって意思を伝えないと先がない。

家庭電話だってまだ普及し始めた時代だ。田舎出身の自分も初めて電話をかけたのは大学に入ってからだ。公衆電話のかけ方が分からず、かけるのに勇気がいったものだ。現在の子供たちが公衆電話とは何かを知らず、かけ方も分からないのと同じである。会って別れる前に、次のデートの約束、具体的な日時・場所を決めるのが鉄則だった。

どんどん話は逸れていく。1970年代初期に流行ったのが上村一夫の「同棲時代」(漫画)やかぐや姫の「神田川」(歌)だった。団塊世代の一部は、実際にヒッピーの時代や同棲時代を生きた世代でもある。田舎の同窓生は結婚が早かった。女子は中高を卒業した後、家事手伝い、花嫁修業をして、20~22歳でお見合い結婚をするのが一般的だった。中学校の同窓会に出たら、40台で孫がいる同窓生が何人もいた。

男は、特に高卒で都会に就職した場合、社会経験が皆無のまま、ムラ社会から人情の薄い都会(「東京砂漠」という歌があった)に放り出され、一人住むことの寂しさをひしひしと感じ、同棲をしたり早く結婚したりする人が多かった気がする。男でも23~24で結婚するのが珍しくなかった。東京の男女の平均結婚年齢が30歳という現在とは大きな違いがある。