深夜番組の「ゴローデラックス」の今夜のゲストは「捨てる女 稲垣えみ子」だった。元朝日新聞の記者で、その著書「魂の退社」で書いている言葉に感銘を受けた。少し長いが、ここに引用しておく。
「現代人は、ものを手に入れることによって、豊かさを手に入れようとしてきました。しかし繰り返しますが、『あったら便利』は案外すぐ『なければ不便』に転化します。そしていつの間にか『なければやっていけない』ものがどんどん増えていく。
それは例えて言えば、たくさんのチューブにつながれて生きる重病人のようなものです。私の節電は、いわばそのチューブを一つずつ抜いていく行為でした。えいった勢いで抜いたものもあれば、恐る恐る抜いてみたものもありました。しかしいずれにしろ、ほとんどのものが抜いてもどうってことはなかったものです。
『なくてもやっていける』ことを知ること、そういう自分を作ることが、本当の自由だったんじゃないか。この発見が私に与えた衝撃は、実に大きかったのです。」
ファンキーなアフロヘアの彼女だが、今年1月までは朝日新聞社の社員だった。編集委員も務め、名物アフロ記者としてコラムを連載。その一風変わった内容が注目を集めた。それは2011年の東日本大震災を機に始めた、電気をほぼ使わないという究極の節電生活。ガス無し、風呂無しで、必要最低限のものだけでおくる究極の清貧生活。夫なし、子なし、無職の51歳。なぜ、一流企業を退社しこの暮らしに至ったのか?
私も実家では似たような生活である。彼女と同じく、ガス無し、風呂無しの生活だ。彼女のように節電生活をしようとしているのではない。母の認知症の症状が進んで危険になったため、プロパンガス供給を止めたからだ。ガスで沸かす風呂も必然的に使えなくなったというわけだ。しばらくして、母は介護施設で暮らすようになったが、ガス供給を再開することもなかった。それほどの必要性がなかったから放置した。
風呂はシャワーで十分だったが、秋の終わりから春が来るまでは週2回ほど、自転車で30分のところにある「極楽湯」というスーパー銭湯に通った。汚れて洗いたいのは股間と頭髪だが、これは真冬でも水で大丈夫だ。ときには全身にシャワーを浴びる。最初が冷たくてためらうが、いったん浴びると冷たさを感じなくなるのである。私の祖父は真冬でも、毎朝庭で褌姿になって水で体を洗っていたものだ。その遺伝子が私にも受け継がれているのだろう。
稲垣さんは東京で、銭湯に行っているそうだ。冷蔵庫もないというが、私も冷蔵庫のない暮らしをしている。節電のためではなく、ただ古くなって音と振動がするようになったからコンセントを抜いただけのことだ。欲しいと思うのは真夏の暑苦しい日に、氷水を飲みたくなったときくらいだ。食料は腐らないものが中心になるが、私の感覚では一週間は新鮮なものだ。好きなじゃがいもやにんじん、たまねぎなどは真夏以外では一ヶ月は大丈夫だ。ガスがないので、調理は電気なべと電子レンジで間に合わせている。もっとも料理は滅多にしない。
三食弁当とかパンやお菓子という、あまり健康的な食生活ではない。弁当は三日分買ってくる。好きな握り寿司やさば寿司はさすがに一日が限界だ。夕方6時以降になると3割引とか半額になるので、ついつい買いすぎてしまう。となると古くならないようにと半日に、握り12貫、さばの押し寿司一本、いなり三個と太巻き三切れ・・・と食べ過ぎてしまうこともある。
こんな食生活のことを書くつもりではなかったが話の流れだ。田舎での交通手段は自転車だ。一番近いコンビニやスーパーまで自転車で15分ほどだが、自転車の買い物籠に入るだけしか買えない。一週間分以上を買い込むことをしないので、保存に必要な冷蔵庫も不要だということだ。もちろん「要冷蔵」と書かれた食品は買わない。
調理は電子レンジ(温めるだけだが)のみ、すぐに腐るものは買わない、手軽に食べられるものが中心となれば、どんな食生活になるか、おのずと分かってくるだろう。レトルト食品生活だ。
圧倒的に多いのは、カレーである。それも箱ごと温められるカレーだ。最初は大塚食品の「ボンカレーゴールド」しかなかった。その後、S&Bが「本日の贅沢カレー」が店に並んだが一年も経たないうちに見かけなくなった。特許侵害だったのかもしれない。そして最近になってハウス食品の「ククレカレー」がコンビニで買えるようになった。ご飯は炊くのが面倒なときはレトルトご飯を重宝している。ご飯とカレーで一食分250円なの経済的である。
つぎに多いのはもちろんインスタントである。一日一食はうどんかラーメンだ。これほど手軽な食品はない。湯を注げば数分で食べられる。20世紀最大の発明の一つである。きつねどん兵衛と日清の麺職人が多い。どん兵衛のてんぷらも好きだが関東ではそばしか売っていない店が多い。そばは駄目でやはりうどんでないといけない。
うどんで思い出したが、先に書いた稲垣さんが香川県高松支局に転勤になったときに気づいたという香川県民性のことである。香川県人はものの価値をうどんで測るのだという。東京でランチは1000円くらいだと聞いたかが香川県民は「じゃランチはうどん10杯もするんですねえ」という。
稲垣さんの話を知るまでは、節電生活の意識はなかった。一日の電気料金は160円だというが、私はもっと少ない。常時使う電力は机の上のスタンドとパソコンの電気だけだ。あとはお湯を電気ポットで沸かし、電気炊飯器を使い、レトルト食品を温めるのに電子レンジを使うくらいである。台所やトイレの明かりは使うときしかつけないからだ。
「ものを手に入れることによって、豊かさを手に入れようとしてきました」という言葉が語りかける意味は大きい。戦後の日本の暮らしを象徴していることでもある。電化製品では下記のような「三種の神器」がもてはやされ、誰もが買って便利な暮らしをおくるようになった。物質的な豊かさを手に入れたことは事実である。
三種の神器









このほかに、キッチン三種の神器(2004年:白物家電の食器洗い乾燥機、IHクッキングヒーター、生ゴミ処理機)、 小泉首相の新三種の神器(2003年:食器洗い乾燥機・薄型テレビ・カメラ付携帯電話)などがある。
しかし、考えてみればどれもこれも「なくてもいいもの」である。私は、車もクーラーもDVDプレーヤも薄型デジタルテレビも使っていない。それでも不便だと思うことはない。
思えば、戦後昭和の初期の頃はほとんどなにもなかったといえる。団塊世代の子供たちは、東京や大阪などの都会を除けば、ガスも上下水道もないところが全国いたるところにあった。私が生まれ育った田舎も例外ではなかった。
少年時代、電気はあったがガスも水道もなかった。洗濯や野菜の洗い物は村の中を流れる小さな川でするもので、奥さんたちがずら~と並んで、世間話をしながら家事をしていたものだ。炊事や風呂には井戸の水を使った。真冬の朝でも冷たい井戸水で顔を洗う。真夏に井戸につるしたスイカが一番おいしい冷え具合だった。
農家の人たちは日が昇る頃から日が沈むまで働いた。夜は電球一個の明るさのなかで夜なべをした。子供たちは7時過ぎには床に入った。テレビもラジオもない時代だった。下水道がないので当然ながら水洗トイレもなく、屋外の牛小屋の隣にあった「ボットン便所」だった。トイレットペーパーもなく、お尻を拭く紙は新聞紙だった。手でもんで少し柔らかくして使った。
下水道ができ、プロパンガスを使った台所ができたのは東京オリンピックが開催された頃だと記憶する。この頃から急速にどの家庭も文化的な生活ができるようになった。白黒テレビが普及するようになったが、その一方で紙芝居や学校での映画上映とか、巡業の芝居小屋といった子供たちの楽しみ事が消えていった。
物質的な豊かさ、便利さを手に入れても、それが心の豊かさにつながるということではない。経済的に豊かになった今の社会から見れば、団塊世代の田舎の子供は「貧しい暮らし」をしていたと映るかもしれない。しかし、その世代のはしくれである私は、「貧しかった」とは思わない。村のみんなが同じような暮らしをしていたのだから。村以外に住む人たちの暮らしを知らないからだ。自然の中で遊ぶことを知らない子供たちより、豊かな心がはぐくまれたと思う。
年に数回大阪などの都会に行くことがあったが、日常生活とは違う世界でひとときをすごすという感覚だった。お目当ては、映画館の支配人をしていた叔父の案内で無料で見れる映画であり、叔母さんがくれるおこづかいで借りる貸し本屋の漫画本だった。町に住む子供たちはいつでも映画を見たり本を借りられるのだが、それをうらやましいと思ったことはない。自然の中で遊べる幸せな子供時代だったと思う。