文化学院創設者で、大正・昭和を代表する建築家、画家、陶芸家である。 新宮市の豪商の大石余平の長男に生まれる。7歳のとき、奈良県下北山村の祖母の養子(母方の西村家)となる。西村家は山林王で、本家に跡取りが途絶えたため、祖母もんが伊作(4歳)を西村家の当主に指名した。
文化学院は芸能人や文人を養成する専門学校だということも、ましてや西村伊作という人物のことも知らなかった。その経歴を読んで思い出したただひとつの記憶は「西村記念館」の名前だった。紀勢本線を利用して横浜に戻るときに立ち寄った新宮駅ちかくにあった。新宮城跡と徐福公園の間にあったが休館日だった。
西村伊作のことを知ったのはまったくの偶然だ。NHKの高校講座を眺めて、シュメール文明のことに興味をもち、これを調べていたときに、西村伊作の名前が出てきた。
太平洋戦争時に、「高天原はバビロニアにあった」とか天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した。Wikiによれば、当時、小島威彦と仲小路彰の発案で「スメラ学塾」が開講(1940)され、その思想に感化された川添紫郎(イタリア料理店オーナー)や建築家の坂倉準三らが「スメラクラブ」という文化サロンを結成した。坂倉は、西村の次女の夫であった。
「スメラクラブ」に入れあげていた娘婿をこころよく思っていなかったのか、このように書き残している。
「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」
小島や仲小路は哲学者で当時の著名人でもある。仲小路は五高時代、佐藤栄作や池田隼人の同窓生で、学業成績は学年トップ(二番が佐藤)だったという。佐藤の総理時代は私的なシンクタンクの役割を果たしていたとされる。そんな知識人が、今の時代には荒唐無稽だといわれかねない「スメラ思想」に凝り固まっていたのか不思議である。皇国・軍国主義と戦争の狂気に感化されたのだろうか。そうだとすれば時代の空気とは怖ろしいものだ。