広岡浅子

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「あさが来た」が最終週になった。モデルとなった明治の実業家・広岡浅子(1849-1919)に関するエピソード三つ。

1.橿原市岡橋家の蔵から1万点の資料が発見!

浅子が嫁いだ大阪の豪商・加島屋があった場所には、大同生命本社ビルが建っており、かつての面影はまったくない。大同生命は浅子が設立に係わった企業で、社内に浅子関係の資料が保管されているが、加島屋時代の資料が見つからなかった。2015年11月に調査した結果、橿原市の岡崎家の蔵に大量の資料が保管されていることが分かった。太平洋戦争の際に、広岡家が疎開させたものだという。岡崎家は江戸時代から山林経営をしている。加島屋10代当主の娘が嫁ぎ、広岡家の親族になる。

2.浅子が買った炭鉱はどこにあったのか?

名前が「潤野炭鉱」だと分かっていたが場所を特定できなかった。原案となった「土佐堀川」を書いた古橋智映子さんも、取材時に探したが分からなかったという。最近になり、飯塚市の郷土史研究家に聞いて、それは現在の県立嘉穂高校があるところだったと分かった。嘉穂高校の図書館に保管された資料の中に、浅子に関する記述もあった。「未亡人が大阪から来て・・・」という一節があり、当時地元の人たちには未亡人だと思われていたようだ。

3.御殿場の別荘での勉強会に参加した著名人

広岡浅子と村岡花子

晩年、浅子は御殿場市仁川の別荘でたびたび勉強会を開いた。これに参加した著名人に、市川房江や村岡花子がいる。「花子とアン」の原案となった小説を書いたのが村岡花子の孫の村岡恵理さん。恵理さんが執筆中に整理していた遺品の中に広岡浅子の写真とメモがあった。そのときは誰なのかわからなかったが、その後広岡浅子の写真だと知った。御殿場での勉強会に参加した人たちを映した集合写真の中に祖母(花子)も写っていたからだった。