中西遺跡

去る8月19日に橿原考古学研究所が、古墳時代の祭祀集落跡が見つかったと発表したニュースが流れた。初めて現地説明会に参加した。発掘現場の中に入って見るのは初めてだった。説明会の後、日本武尊白鳥陵、新沢千塚古墳群、藤原京などを訪れた。

帽子屋さん

朝6時半に出たときは肌寒いくらいで雲も多かったのでうっかり帽子を忘れた。7時を過ぎる頃から晴天になり真夏の日差しが強く、薄毛の頭や首筋がジリジリと熱くなってきた。これでは炎天下での説明会で30分もしたら熱射病になりかねないと思って、帽子屋さんを探した。

途中でオークワという24時間営業のスーパーがあった。しかし、帽子がある2階の売り場は9時開店だった。御所の店なら24時間営業の1階に帽子がおいてあるという。遠回りになるが行ってみることにした。確かにあったが、麦藁帽子は売っていなかった。つば広の帽子はあったが女性用ばかりだった。普通の野球帽(980円)を買った。日差し除けにはあまり役立たないが無いよりましだ。時刻は8時を過ぎたところだ。

御所駅まで5分くらいだった。駅前商店街は閑散としていたが、いくつか店は開いていた。ふっと見ると、小さな店の軒先に麦藁帽子が置いてあった。これだ!と感激して買い求めた。なんと480円と格安だった。これで一安心だ。

「御所まち」

商店街を後にしてすぐ「行者街道」の道標を見つけた。辿って行き、土地の人に訊くと、ここが本町通りで北側にも三つほど筋があり、この一帯が「御所まち」と呼ばれる。一番北の筋の真ん中あたりに奥野誠亮さんの家がある~などと教えてくれた。

奥野誠亮は奈良県選出の衆議院議員で、文部大臣、法務大臣などを歴任したので奈良県民は、かつては誰でも知っている著名人だった。高校の大先輩であることは知っていたが、亡父より年長の人なので馴染みはない。御所市出身とは初めて知った。地元の人にとっては誇りなのだろう。訊かなくても、見ず知らずの人間に教えてくれる。当年102歳で健在だそうだ。政治基盤は息子の信亮が引き継いで、二世議員になっている。

「御所まち」と聞いて思い出したが、じつは3年前に葛城山からの帰りに御所駅周辺を歩いたことがある。伝統様式の家々があったな~としか記憶していなかった。徒歩1時間くらいのところにある日本武尊白鳥陵を目指していたから、ちょっと写真を撮っただけで素通りしたからだ。今回も、遺跡発見の現地説明会に参加するのが目的だったので素通りしてしまった。

寺内町(御坊)

御所市の「御所まち」紹介によれば、江戸時代初期に形成された陣屋町で、奈良県中南部の中心として発展したという。葛城川を挟んで、西御所(商業の町)と東御所(寺内町)に分かれており、江戸時代の検地絵図がいまでも使えるほど、町のかたちがよく残されている。

ウィキによれば、寺内町は、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。商業地である門前町とは異なる。このことを初めて知ったのは紀勢本線の旅で途中下車した御坊駅の近くにあった「本願寺日高別院」を訪ねた時だった。

寺内町と御坊はほぼ同じ意味で使われているようで、○○御坊と呼ばれる場所が各地にある。ウィキでは主な寺内町として32挙げているが、多くは大阪府と奈良県に存在する。故郷の町には箸尾御坊、隣町には高田御坊、田原本御坊、今井御坊などがある。今井御坊は重要伝統的建造物群保存地区がある今井町のことである。

今井町は高校の通学路みたいなものだったが、当時はそんな歴史などまったく知らなかった。数年前に訪ねて、「大和の富は今井に集まる」とまで言われたこと、堺の商人で茶湯の天下三宗匠の一人、今井宗久の出身地であることなどを知った。身近な土地の歴史には疎いものだ。

中西・秋津遺跡

類例のない堅固な板塀跡が発見されたことにより注目を浴びた古墳時代前期の遺跡で、下層には弥生時代の水田関連遺構、さらにその下には縄文時代の遺物が確認された。そんなことも何も知らなかったが、四日前のニュースで現地説明会が開かれると知って、初めて参加した。

現地には9時頃に着いた。説明会は10時からだったが、発掘現場には作業員だけでなく、見学者も何人かいた。遺跡の周囲をぐるっと回って全体像の写真を撮って、戻った時にはかなりの見学者が集まっていた。9時20分頃には、発掘現場の中に作られた見学用の歩道をめぐることができた。

新聞記事やウィキなどでは「葛城氏の祭祀空間~」とか「葛城氏が関与した~」云々のこと(考古学研究所以外の人の発言)があるが、説明会では「葛城氏が直接係わったのではないだろう。有力豪族が関係したことはあるかもしれないが、ヤマト王権が関わっていたと考えるのが妥当である。」といった説明があった。予備知識がなかったので、発掘担当者の説明内容をすぐには咀嚼できなかった。

後で調べると、葛城氏が歴史に出てくるのは5世紀であり、葛城氏と名乗ったのは6世紀の氏姓制度のあとである。つまり、葛城氏が登場する100~200年前の遺跡だから、「葛城氏の祭祀空間」というのは納得できないことだ~と解釈した。葛城氏の祖先が関与していたかもしれないが、これほど大規模な遺構や出土品から考えると、一地方豪族の力ではなく、4世紀前半の中央政権だったヤマト王権が計画的に作ったのではないか。

素人ながら驚いたのは、発掘された遺物の中の土器が、これまで見たこともないほ 薄かったことだ。担当者に訊くと、現在でもこれほどの土器を製作するのはかなり難しい~という。それほど高度な技術を持った人が1600年前にいたということは驚きである。

今回の橿原考古学研究所(橿考研)による発表は、中西遺跡第26次調査~古墳時代前期集落の調査~の結果であるが、説明の中で「秋津遺跡」の話が出てきた。「秋津遺跡と一体となって捉える必要がある~」と言っていた。どういうことなのか調べた。

2010年1月24日の「秋津遺跡 現地説明会資料」によると、2009年に京奈和自動車道建設に先立って、予定地の試掘調査を始めた。その結果、新たに古墳時代前・中期(約1500~1700年前)の遺跡が見つかった。旧地名をとって「秋津遺跡」と名付けられた。

秋津遺跡は、その前から遺跡の存在が分かっていた中西遺跡に連なる形で北東に位置している。橿考研の説明会資料を古い順番に読んで、発掘・発見・発表の経緯を時系列にメモした。

  1. 2009年5月~ 中西遺跡に隣接する北東部の場所が京奈和道路の建設予定地になったので建設開始前に試掘調査を行った。その結果、古墳時代前期の方形区画施設が3カ所、掘立柱建物、溝などが見つかった。これらは、付近の地形に合わせた計画的な配置になっていた。溝や流路からは多くの遺物が出土した。土師器、須恵器、製塩土器、勾玉、管玉などである。この遺跡を「秋津遺跡」と名付け、調査結果を2010年1月に発表した。
  2. 2010年8月発表(中西遺跡)~ 弥生時代前期(約2400年前)の広範囲の水田と森林が見つかった。これらは厚さ1.5~2mの洪水砂で一気に埋まったため、埋まった時点での状況を検出できた。森林の中では根を張った状態のままの樹木が200本あまり見つかった。弥生土器や石器の破片(サヌカイト片)も多く出土した。
  3. 2010年11月(秋津遺跡)~ 最初の秋津遺跡試掘で見つかった方形区画施設3基に加えて、さらに3基が見つかった。また、溝と流路に隔てられた北側に竪穴住居群が見つかった。塀状の区画で囲まれた遺構群の性格はなにか?祭場とする意見もあれば、有力首長の居宅だとする考えもある。
  4. 2011年5月 秋津遺跡第4次調査 ~ 弥生時代の遺跡の下層から、縄文時代の流路・溝・ピット、縄文土器・土偶・石器・石製品(硬玉製管玉)などが見つかった。同じ場所からノコギリクワガタが仰向けの状態で出土した。体長約 63.5mm、 最大幅 15.0mmの大型の個体である。全身が出土した例は初めてで、考古学だけでなく昆虫学の研究資料としても極めて貴重なものである。この2か月後には縄文管玉が見つかったことが発表されている。

中西遺跡は約2mの層になっており、縄文時代~弥生時代~古墳時代前期の遺跡が折り重なっている。秋津遺跡の縄文・弥生時代の層が中西遺跡につながっており、その断面を検証して分かった。

参照資料

2015年8月23日(日) 中西遺跡現地説明会 GPS実測距離 46.5km 経過時間 12時間3分
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中西遺跡

日本武尊白鳥陵

新沢千塚古墳群

おふさ観音

藤原京跡

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2015

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