郡山城址

郡山城跡由来によれば、1580年筒井順慶が館を築き、豪族たちを平定。織田信長の力を背景に山と一国の安定勢力となって築城した。豊臣の時代になって秀長が入城し、本格的な城郭の構築を開始した。江戸時代になって水野、松平、本多など徳川譜代の功臣の居城となったが、享保9年(1724)に柳澤氏15万石余をもって入り、明治維新まで続いた。

平城京と斑鳩の里を結ぶ線の中間点にあり、北東6キロに若草山を眺め、北方2キロには薬師寺の塔が見える。西南6キロには斑鳩丘陵、その麓に法隆寺がある。その左手には二上山、葛城、金剛の山なみが遠望できる。ここから見る二上山の雌岳は雄岳に隠れて見えない。

城跡公園は春になれば桜の名所としてたくさんの人が訪れるが、今の季節は人影がなく静かだった。天守があった場所で夕日を待つこと30分。恋人らしき外人カップルが一組登ってきただけだった。

青空に浮かぶ一塊の雲がピンクに染まっていた。もう夕焼けは期待できないと思って、日が沈む頃に城跡を後にした。野面積みの石垣を下って神社を過ぎると内堀の手前に社務所があった。由来をあれこれと話してくれた。明治13年に柳澤神社が創建され、以後城跡は宗教法人が管理しているそうだ。御祭神は柳澤美濃守吉保公である。入城したのは吉保の子、吉里で甲府から移封となった。その縁で郡山市と甲府市は姉妹都市になっているそうだ。

柳澤吉保といえば、綱吉の寵愛を受けた側用人として甲府藩15万石の藩主、大老格にまで立身出世した人物。綱吉の死後は、新井白石が権勢を握るようになり、吉保は江戸に隠居する。その屋敷が六義園(加賀藩の旧下屋敷跡地)として現在も残る。仕事の関係で何度も駒込の地に足を運び、六義園沿いの道を歩いたが、いまだに園内を見学したことはない。春の枝垂桜、秋の紅葉がきれいな都内を代表する日本庭園で、外国からの観光客も多いと聞く。

この日は実家を後にして草津に向かうとき、ふと思いついて途中下車した。近鉄郡山駅から線路沿いの道を北へ徒歩7分で城跡入り口に着いた。昔一度だけ郡山に来たことがあるが、その頃の街の面影はなかった。青春の悔いが残った土地なので、昔を思い出す光景が跡形もなく消えていたのがありがたかった。途中出会った土地の人に聞くと、「神社に行かはるんですか」という。「郡山城です」と答えると怪訝な顔をして「城はありまへんよ」という。その意味が、帰り際、社務所のおばさんの話を聞いて分かった。

土地の人にすれば、郡山城跡は「柳澤家」であり明治以降は神社という認識だった。外堀周辺は「五家老町」と呼ばれ、代々の家老たちの下屋敷が立ち並んでいたそうだ。柳澤家は戦後、東京から郡山に居を移したそうで、現在の当主は11代目、奈良教育大学長も務めた人だという。

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