高松塚古墳

2011年8月31日(水)曇り 近鉄吉野線飛鳥駅から高松塚古墳~キトラ古墳~桧隅寺跡をぶらりと歩いた。飛鳥駅から徒歩10分で飛鳥歴史公園入り口に着く。道路から数歩入ると視界が開ける。右手に上がっていくと展望台があった。人影はなく、そこは蝉時雨に包まれていた。

尾根沿いに南東方向に数分歩くと、高松塚古墳があった。 芝で覆われた円錐台の墳墓?人工のものだった。昔、新聞の写真で見たのは竹林だった気がする。想像していた古墳の風情はまったくなくてがっかりした。 発掘当時の写真が、古都飛鳥保存財団のホームページにあったので拝借した。右側が今日撮った写真だ。

春に訪れた石舞台古墳も同じで、子供時代に見たときの風景がなくてちょっとがっかりしたものだ。畑の中を緩やかに登っていくと丘の一角に巨大な岩が見えて感激したものだった。史跡保存と観光資源化の波に乗って人工的に周辺が開発されると古の風情はなくなるものだ。

高松塚古墳の変貌は激しかった。極彩色の石室壁画が発見された30数年前に見た竹薮に覆われた墳丘の面影はまったくなかった。現代人が作った円錐台の墳丘を見ても何の感慨も湧かない。でも、そのことを除けば周りの風景は素晴らしかった。大和民族の国と文化が築かれた地、日本人のこころの原点がここにあるのだという思いが沸々とわきあがってくる。

人影はなく、ひとり静かにもの思いに耽った。夕刻が近づいていた。歴史公園の職員が見回りにきたので聞いてみた。

「どうしてあんな姿になったのですか?」

「壁画のカビや破損がひどくなり、石室内での修復作業が追いつかなくなった。修復作業用の施設を作り、石室壁面をすべて解体して施設に移した。その後、竹薮だった墳丘を掘り崩して、あのような形にしたのです。」


帰り道、散歩している土地の人に会っておしゃべりをしたときに、その人はこんなことを言っておられた。 「地元の人たちは怒っている。役人も学者も自分たちの手柄ばかりに関心があって、日本人の先祖が築いた遺産を守ることがおろそかになった。心ある人は地元と国(官僚)の板ばさみになって苦悩したあげく自殺した人もいる。哀しいことです。」

家に帰っても、高松塚古墳の発掘とその後の経過やあの飛鳥美人の壁画がどうなっているのかが気になったのでネットで調べた。

〔参照資料〕

地図
Google Mapを開く 旅の地図

写真 動画 地図

2015

×