子供の頃、祖父母が教えてくれたことのひとつが「足るを知る」ということである。「上を見たらあかん 欲張ったらあかん いまが幸せだと思わなあかん」といっていた。それが「足るを知る」ということだと気付いたのは学生時代に森鴎外の「高瀬舟」を読んだときだった。それから何十年も経って、はじめて訪ねた龍安寺の庭で、「知足の蹲踞(つくばい)」を見た。
「五・隹・疋・矢」と書いてあった。水溜めに穿った「口」を共有すれば、「吾唯知足」と読める。「われ、ただ足ることを知る」である。思いがけない発見だった。
後で調べると、水戸藩主徳川光圀公が寄進したもので、「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものだという。
祖父母はこの禅の格言を引用していたのではない。「いまが幸せだと思う」ことの大切さを実感して、孫に話したのだろう。欲張らずに生きることが心を豊かにし幸せを感じることなのだと教えてくれる。
方丈の石庭には4つの謎があるという。刻印の謎、作庭の謎、遠近の謎、土塀の謎である。龍安寺の案内パンフレットやホームページに書いてある。訪ねたのは真冬で、数日前に降った雪が土塀の一部に残っていた。足元から冷気が上り凛とした空気が身を引き締める。
石庭の全景を撮ろうとすると廊下に坐って鑑賞している人たちの姿が入ってしまう。構図の中に入る手前の人に声をかけて了解してもらう。人物を撮るつもりはなかったが、勘違いをしてカメラのほうを向いてくれた。リトアニアから来た二人で夫婦なのか父娘なのか?訊くのは失礼だと思い確かめなかった。
昭和後期からは石庭が有名で多くの観光客が訪れるというが、江戸時代は鏡容池を中心とした池泉回遊式庭園が石庭よりも有名だったそうだ。絵入りの名所案内書である『都名所図会』(安永9年(1780年)では鏡容池はオシドリの名所として紹介されている。
昭和50(1975)年に日本を公式訪問したエリザベス女王が龍安寺を拝観し、石庭を絶賛した。それが海外のマスコミで報道され、ZENブームと相俟って世界的に有名になったという。外国人による日本再発見はよくあることでもある。
仁和寺は、中高生のとき授業で習った徒然草の「仁和寺のある法師…」で始まる岩清水八幡宮の話でしかその名前を知らなかった。龍安寺から南西に5分も歩けば仁和寺がある。大きな山門が威容を誇っていた。
境内は龍安寺と同じくらいに広く、五重塔が写る池があった。龍安寺を凌ぐ名刹である。創建は仁和4年(888年)で、仁和寺第1世は宇多法皇で、皇室出身者が代々門跡を努め、平安~鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保った。
しかし、応仁の乱(1467年)の兵火で消失し、江戸時代初期に再興された。明治20年には御殿が消失したが、これも大正時代に再建され現在にその姿が伝えられている。昭和時代に真言宗御室派総本山となった。また平成6年(1994年)に古都京都の文化財のひとつとして世界遺産に登録された。