大阪からJR快速に乗ると30分で京都に着いた。山陰本線快速で嵯峨嵐山まで11分だった。
南口に降りると右手にトロッコ列車の嵯峨野駅があり、デゴイチが展示されていた。1~2月は営業していない。トロッコで保津峡に行き、そこから保津川下りを楽しむのが一般的だから、舟下りに向かない冬季は休業だった。新緑、紅葉の季節には観光客でいっぱいになるのだろうがいまは人影もない。
南に下ると嵐山・渡月橋にでるが、まずは北西に歩いて嵯峨野に向かうことにした。渡月橋は15年ほど前に海外からのお客を案内したことがあるが、嵯峨野は30数年前に行った記憶があるだけだ。竹林の風景と化野念仏寺の無縁仏の群れだけが印象に残っている。
車道を歩くのがいやなのでわき道を探していると山裾に煙が立つのが見えた。消防車のけたたましい音が聞こえてきた。火事だった。煙を避け、私営住宅地を抜けると視界が開けた。坂本龍馬、中岡慎太郎らの銅像が目に入る。右手一帯、民家がない鄙びた風景にであう。
ここが嵯峨野だと実感する。田んぼの向こうに落柿舎が見えた。向井去来の別荘として使用されていた草庵で、松尾芭蕉がここに滞在して「嵯峨日記」を書いたといわれる。観光客はひと組だけで、彼らが去るとまた静寂の世界に戻った。
祇王寺に向かってのんびり歩く。しがらき焼きの店があった。入口でタヌキの家族が迎えてくれた。お皿やお椀のほかにさまざまな工芸品が展示されていた。
店の向かい側は小倉山二尊院だ。後で知ったのだが、その参道は紅葉の名所で、奥には百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所があるそうだ。定家が小倉山で和歌を撰んだので「小倉百人一首」と命名されたのだと知った。
平家物語で語られる滝口入道と横笛を祀る寺で、悲恋の地である。祇王寺の左手にひっそりとあって目立たないお寺だ。入口を入った正面は新田義貞の首塚で、その右手の斜面を登ると滝口寺がひっそりとたたずむ。
かやぶき屋根の本堂に雪が残っていた。その横手には平重盛を祀った小さな小松堂があるだけのこじんまりしたお寺だった。30分ほどいたが、嵯峨野では祇王寺の方が有名なせいか、訪れる人は誰もいなかった。
「平家物語」悲恋の尼寺と呼ばれ、女性に人気があるお寺だそうだ。明治28年に、元京都府知事が別荘を大覚寺門跡に寄付し、寺院に保管されていた墓と木像を映したのが現在の祇王寺。この関係から大覚寺の塔頭となっている。
清盛の寵愛を失って尼になったのは祇王21、祇女19、母の刀自は45歳だった。この母子三人のもとを訪ねて尼になった仏御前は17歳だったという。「浄土を願わんと深く思い入り給うこそ」…現代の女性たちにその心情を理解できるのだろうか?
祇王寺参道入り口の三叉路角に見覚えのある店「さがの」があった。昔車で通った記憶がある。店の前の木々にウグイスやメジロが飛び交っていた。大覚寺まで徒歩25分の標識があった。時間の関係で大覚寺は諦めて嵐山方面に歩くことにした。
トロッコ嵐山の駅を過ぎた右手一帯が大河内山荘。大正・昭和の時代劇スター、大河内伝次郎(1898-1962)が自ら設計・造営した和式庭園で、紅葉の名所になっていると聞いた。またの機会に訪ねようと思う。
大河内山荘入口から山陰本線に沿った南側一帯が広大な竹林だ。この風景が私の記憶に残っている嵯峨野のイメージだ。写真の道を抜けると天龍寺、野宮神社に至るが、その後嵐山に出るには繁華街を通らないといけない。それがいやなので保津川に至る恵山公園への道を辿った。
30数年前は鬱蒼とした小高い山間を縫うように小道が通っていた記憶があるが、いまはきれいに整地され子供たちが遊べる広場もできていた。ところどころに大きな岩があり、百人一首の句が刻まれていた。懐かしく読んでみると、どれもこれも恋歌で、恋人が来ない夜の寂しい気持ちや一人過ごす寂しさ、人恋しさを謳った句が多いことに新鮮な驚きを感じた。
右大将道綱母(936-995) - 「蜻蛉日記」の作者で、本朝三美人の一人と称され、才媛とうたわれた。晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく寂しい生活を送ったと言われている。
恵山公園を南に下ると保津川に出る。水量が少ない時期で、川の流れも静かだった。枯れ枝が水面に影を落とす風情が印象的だった。