12月28日(日)晴 敦賀周辺 GPX 10.6km 歩行 17,055歩 経過時間 3時間11分
大和から横浜に移動する。京都から湖西線~北陸線~大糸線~中央線を辿る遠回りの二泊三日の移動で、これが今年最後の途中下車の旅になった。

午前5時41分出発。道路の電灯の明かりを頼りに暗がりの中を歩く。最寄駅まで2.25km、徒歩30分。まずは近鉄橿原線で京都へ。大和八木から急行で1時間12分だ。京都駅7時19分着。青春18きっぷを買って、今回初めて北陸線経由で横浜に戻ることにした。最初の途中下車駅は敦賀にした。つぎの列車は8時15分発だった。駅前の小さな喫茶店で軽い朝食を済ませる。
敦賀城は現存しない
敦賀駅9時53分着。駅の案内で「敦賀城」への行き方を訊くと、そんな城はないという。もらった地図を見ると金ヶ崎城跡、天筒山というのがあった。金崎宮行きのバスが10時10分にあるというので乗った。
※後日調べたら、敦賀城は1616年の一国一城令で廃城になって現存しない。街中の小学校横に案内碑があるだけだ。
気比の松原
バスは街中を抜けて走る。交通量はそんなに多くないが車道は歩きたくないものだ。十数分後、街中を離れ松林になった。「気比の松原」だと車内案内があった。運転手さんに「ここで降りたら何分後に金崎宮行きのバスがありますか?」と訊くと、30分後だったので途中下車した。バス停は松原の東南の角にあった。数分で浜辺に出た。
三保の松原、虹の松原と並ぶ日本三大松原のひとつだという。40k㎡の広さの中に17,000本の松が並び、夏には浜辺が海水浴場として賑わうそうだが、この日は広い浜辺に数人の人影しか見えなかった。松原はクロマツが多いが、気比の松原ではアカマツが85%を占めている。
金崎宮
30分後、巡回バスに乗る。金崎宮には10分ほどで着いた。参道の入り口、金前寺横に芭蕉の鐘塚なるものがあった。旅から帰って由来を調べた。金ヶ崎は南北朝時代、尊良親王(後醍醐天皇の皇子)、新田義彰ほか300有余名が自刃した古戦場である。そのときに陣鐘が海に落ち、いまも埋まっていると言い伝えられている。この悲劇を聞いた芭蕉が「月いつく鐘は沈るうみのそこ」と詠んだ。そのことから芭蕉の鐘塚という。

鐘塚から、社目に作られた参道の階段を上ると数分で金崎宮に着く。宮司さんが小型の雪掻き車で除雪作業をしていた。庭師の人の話によると、いまの宮司さんが(もと気多大社の神官)来られてから金崎宮は変わったという。「恋の神社」などという謳い文句もそのひとつだが、南北朝、戦国時代の古戦場を観光資源にしたことで多くの人が訪れるようになったそうだ。

金崎宮は元々は小さな祠で、現在の金ヶ崎城址だといわれる月見御殿近くにあったのを現在の場所に移して造営したそうだ。明治時代の後醍醐天皇の王政復古の見直しの結果として造営されたのでそれほど由緒があるわけではないという。同じ境内には愛宕神社、朝倉神社、絹掛神社がある。
金ヶ崎城跡
神社の左側、崖の上の山道が通っている。敦賀の港と市街地を一望できる。10数分上ると、尾根が開け古戦場の石碑が建っている。その突端が月見御殿跡だといわれる場所で、ここが金ヶ崎の最高地点(86m)である。
少し下って東南に延びる尾根道を行くと天筒山(171m)に至る。一の城戸から急な登りに也雪に覆われて足がすべる。頂上まで登るのはあきらめて途中の分岐点から南に下る。永覚寺の境内に通じていた。墓参りをしていたおばさんが近道を教えてくれた。山の斜面と道路に挟まれた窪地で、泉延命地蔵尊がありその隣りに命の水が沸いていた。永覚寺から徒歩15分ほどで気比神宮に着く。
気比神宮
越前国一宮。北陸道総鎮守。地元では「けいさん」と呼ばれている。大宝2(702)年の建立。大鳥居(高さ11m)は、春日大社、厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居のひとつ。境内に芭蕉の句碑がある。