稲刈り

実家の東側に空き地を挟んで稲田がある。今年80歳になるMさんが 稲刈りをしているのが二階の窓から見えた。使っている稲刈り機はバインダーと呼ばれる機械で、 稲を刈り取り、同時に束にするのを自動でやってくれる。高齢者でも農作業を可能にしてくれる農機具のひとつである。

私の記憶では昭和40年代に急速に普及した。昭和39年東京オリンピック開催の頃、中学を卒業して 大都会に集団するのが社会現象となった。とくに東北地方出身の若者たち(いわゆる団塊世代)は大挙して東京に集団就職した。 結果として地方から若者が流出し、農業の担い手もどんどん減少した。

私の田舎では集団就職はなかったが、中学・高校を卒業すると大阪など近辺の都会に就職するのが普通だった。 田舎には農業以外の仕事がないからである。バインダーやコンバインといった農機具がない時代の農作業は、 一家総出でかつ村人が協力し合わないとできなかった。家督を息子に譲った祖父母も女・子供も例外ではなかった。

男女の区別なく、全員が働いた。男女の肉体的・技能的な差はあるわけで、自ずと役割分担はあった。 秋の収穫時でいえば、鎌をもって一束ずつ刈るのは男、それを束ねて根元を藁紐で結ぶのは女。束ねた稲をふたつに開いて 稲掛け(稲木いなぎ稲機いなばた稲架はさ) に架け、天日干しのあと大八車(総木製の人力荷車)に積み込んで運ぶのは男である。男手が稲掛けをしている間に女手は家事をする。

赤ん坊がいる母親であっても農作業をした。田んぼの端に籠に入れた赤ん坊を置いたり、ぐずったときは年長の姉または叔母が面倒を見る。 そんな光景が普通に見られた時代だった。ある意味、夫婦共稼ぎや子供が家事を手伝うのは当たり前だった。そうやって3人~4人の 子供を育てた時代である。明治・大正時代や昭和でも戦前までは一家三代同居で、8人家族は普通で、 ときには未婚の叔父叔母も同居する10人以上の家族がいた。

そんな秋の家族の風景は昭和40年を境にだんだん見られなくなった。高校・大学に進学することが多くなり、 卒業すると都会に就職する。長男も農家を継がずに家をでてしまう。継いだとしても農業だけでは生計が成り立たなくなり、 多くが兼業農家になっていった。農作業の従事者が激減していった。人で不足のなかで農業を続けるためには、 高価な田植え機や稲刈り機を購入(村人で共同購入)するしかなくなった。

昭和30年代の日本と比べると、いまの子供たちには想像を絶するような変化があったといってもよい。 成長する中で次第に社会が変化していったのを経験した戦後生まれの人間には、その変化がそれほど急激だったと感じるわけではない。 しかし、過去の歴史を振り返ってみると恐ろしいほどの変化があったと実感する。

地方出身の団塊世代の子供時代には、テレビも洗濯機もクーラーもなかった。上下水道がなく、 洗濯や野菜の泥を落としたりするのは川であり、調理や洗い物、飲料水には井戸の水をつかった。 都市ガスやプロパンガスがなく電気釜もない時代だから、調理はすべてかまどだった。 トイレはもちろんボットン便所だし、お風呂は薪で沸かす五右衛門風呂だ。暖房には火鉢(炭団、煉炭)や湯たんぽを使った。

都市の変化(近代化)も激しかったが、農村地区の変化もそれ以上に激しかった。都市人口・労働者は飛躍的に増えたが、 農村地区は過疎化、高齢化へ一途に進む道のりだった。農業は忘れられた産業かもしれない。 TPP交渉などで一時的に政府が真剣に考えるだけの存在かもしれない。

農林水産省の報告(農林水産基本データ集 2015年2月)によれば、農業(兼業含む)就業人口192万人(前年比▲8.3万人)、 平均年齢67.0歳、農業所得119万円...。主業農家は28万戸にすぎない。

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