2009年7月2日 FSBA同窓会開催時に幹事が作成したスライドをJPGに変換した。1990年からの足跡で、創立後2年間の内容はない。当時を知るFSBAメンバーが関与していなかったためだ。
当時の海事本の米国子会社として設立されたが、実質的にはシス本からの出向者が中心となった。名称は、FSEA(Fujitsu Systems Engineering of America)だった。目的が①日系企業のサポート、②サードパーティソフト(ISV)の移植・技術サポートだったため、出向SEが要となったが、経営は海事本に任された。
私はシス本から派遣された米国駐在員だったが、FAIでの業務(Information Systems Division)責任があった。オフィス探しなどを手伝っただけであるが、設立後はFAI配下のISV移植・技術サポート部隊をFSBAに移管した。ただし、ISVとの戦略的な交渉についてはFAIが継続して担当した。
日系企業の米国進出が増えるとともに、そのSEサポート業務も拡大した。この業務拡大に対応するために日本からのSE出向者も年々増えることになる。同じ頃、FSEAの名称が、米国内ではサポート中心でエンジニアリング業務の実態がないため変更するよう政府からの勧告があった。FSBA(Fujitsu System Business of America)に名称変更し、米国内での自主ビジネスも立ち上げるべく方向転換された。
時を同じくして日本のバブルが崩壊し、米国においても多くのFAI子会社が業績悪化に苦しむことになった。現地経営のノウハウ不足もあっていくつかの訴訟にも苦しめられる。結果としてリストラ旋風が吹き荒れた。経営が立ち行かなくなって閉鎖する子会社もでてきた。FAIの経営体力では対応できなくなり、多くのFAI子会社が、日本の本社直轄子会社になった。
海外ビジネスは縮小傾向になり、日本国内の業績も悪化。とうとう創立以来はじめての赤字決算になった。1992年のことだ。当時の社長は構造改革を強力に進めた。SE部門は依然として赤字体質だったため、早急に黒字転換するように求められ、4~5年後の計画だったのが2年後に黒字転換することが最重要課題になった。
システム・ビジネスを、通信、半導体、コンピュータに次ぐ第四の事業に押し上げることが求められた。そのための全社を挙げての構造改革に取り組むことになった。大変革の時代に突入したということだ。
書き始めるといろんなことが思い起こされて、FSBAとは直接関係のない話になってしまった。私事で言えば、システム企画部、パッケージ企画部と担当しながら海外企業との折衝や海外子会社のリストラも担当するようになり、職業人生の中でもっとも多忙な時期を送ることになった。FNSリストラ・訴訟問題が一段落したとき、FSBAの経営を頼まれたことがあるが断った。精根尽き果てていたのだが、結局別の事業部の米国子会社のリストラにまた取り組むことになった。因果な仕事だった。
因果なことといえば、FSBA(当初はFSEA)創立時と解散時に米国にいたこと、GM/EDS戦略提携に米国側でかかわり、FAIソフト開発部隊をFSBAに移管したが、その終わりを見届けたのも米国にいたときだった。ひとつの時代が終わったということだが、不思議と喪失感はなかった。やり遂げたという満足感というか、生きた実感があったのは幸せなことだった。