
校訓は「至誠・至善・堅忍・力行」~旧制中学時代の1906年に制定された。卒業後、思い出すことはほとんどなかった。いま見るとなかなかいい校訓だ。これに則った人生を送ってきたのかと自問する。汗顔の至りだ。

校歌の作詞・作曲は、「平城山」の北見志保子と平井康三郎である。北見志保子のことはいままで知らなかった。平井康三郎と同じ高知県出身の詩人だ。歌人・橋田東声と結婚したが10年後、37歳のときに離婚。夫の弟子だった男と恋に落ちた。男は当時慶大生だった12歳年下の浜忠次郎だった。
浜は、親族によって強制的にフランスに留学させられ、志保子と別れさせられた。フランスに旅立った浜を偲び、平城山の磐之媛陵周辺をさまよった際に詠んだ短歌が、「磐之媛皇后御陵」と題した連作である。この中の二首が、「平城山」の歌詞になった。
「あのうたは すぎし日 とほくゐる人を恋ひやまず たまたま平城山の陵ニあそび 仁徳帝のみ心を しのびまつり(中略)作りました。」と後年、志保子は手紙に書いている。
1.人恋ふは 悲しきものと 平城山に もとほり来つつ 堪えがたかりき 2.古へも夫に恋ひつつ 越へしとふ 平城山の路に 涙おとしぬ
※声はボーカロイドのMeiko
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