剱岳~立山~黒部登山

1967年7月22日(土)~24日(月) 嵩研究室メンバーの親睦会を兼ねて立山に旅した。総勢8人だったと記憶する。何人かは、登山愛好家だった助手の人の案内で剣岳に登った。私のはじめての登山だった。写真はWiki Public Domain

半世紀前のことを書いているので記憶があやふやなことが多い。当時は日記をつけていたのだが、その日記帳が見つからない。1967年夏のことだったのは確かである。出発日は不明確だが、夏休みに入った最初の土曜日、7月22日だったと思う。三日目に関西電力黒部第四発電所を訪ねているので、7月22日~24日(月)のことだろう。

第一日目

大阪から北陸本線経由で富山まで。当時の長距離列車は夜行であることが多く、「日本海」「立山」、「つるぎ」といった列車名が記憶にある。教授たちはさておき、我々貧乏学生は学割で夜行列車で富山まで移動したのかもしれない。富山からは地方鉄道立山線で終点の立山へ。立山ケーブルで美女平に行き、そこからバスで室堂へ行ったと記憶する。

教授たちは富山か立山高原あたりに泊まったのかもしれないが、我々学生は雷鳥沢キャンプ場にテントを張った。そのために私は登山部だった友人から5人用テントを借りて持参した。早朝3時か4時に起床して腹ごしらえをして遅くとも4時半には出発したと思う。夜明け前の薄暗がりの中をヘッドランプの灯りを頼りに歩き始めたのを覚えている。登り7時間で、午前中に登頂するためには4~5時に出発する必要があった。

第二日目

雷鳥沢~剣御前小屋

雷鳥沢をジグザグに登る。尾根筋まで標高差500mほどだったが息があがってきつかった。初めての登山で勝手が分からず無駄な力が入っていたのだろう。見通しが利く尾根筋を歩き始めた頃に夜が明けてきた。峰々が連なるすばらしい景観に感動したのを思いだす。森林限界を超え岩とハイマツが織りなす世界だった。残雪の中にライチョウをはじめて見たことも思い出した。

剣御前~剣岳

1967年当時、すでに剣御前小屋があったかどうかは記憶にないが、ここから登山コースが三つに分かれている。西側の剣御前ピーク(2776m)を経て前剣に至るコースを歩いた。前剣までは危険な場所はなかったように思う。カニのヨコバイ、ハシゴのかかったタテバイなど危険な場所は前剣と剣岳の間にあったのだと思う。

めざす剣岳まで峰が3つ4つあった。遠くにピークが見え、あれが剣か?と思ったらまた少し下って尾根筋を歩き、次のピークをめざす。前剣(2813m)を過ぎると尾根が痩せ、転倒すると深い谷に転落する危険がある。岸壁にへばりつくようにカニのごとく横に移動しないといけない場所があった。「カニのヨコバイ」と呼ばれる。当時は若く、体操部で鍛えた筋力、気力があったので、怖いとか危険だとかいった思いはなかった。高所恐怖症はまったくなく、断崖の鎖場を片手懸垂で登るのが心地よかったことを思いだす。

剣岳~立山連峰

剣岳は「一般登山者が登る山としては最も危険度の高い山」とされ、容易な稜線での滑落事故も発生し、一流登山家も岩場や雪山で多くの命を落としている。国土地理院が公表する標高は2999mになっている。2004年に三等三角点が設置されGPS測定した結果である。私が登った1967年当時の標高は、市販地図本でも国土地理院発行の5万分の1地図でも3003mと表記されていた。その後、航空写真測量が行われ、2998mとされ、2004年には2999mとされたというわけだ。

剣本峰からの帰りに剣山荘に立ち寄る。眼下に剣沢の大雪渓が広がる。この雪渓を下ったのは10年後のことだった。時刻は正午頃だったと思う。日暮れまでかなりの時間的余裕があり、体力も十分に残っていたので、別山(2874m)に登り、そこから南へ立山を縦走して雷鳥沢に戻った。

第三日目

いまは立山黒部アルペンルート(1971年開通)があり、老若男女だれでも気楽に行け、大自然を満喫できるが、40年前は富山県側の室堂まで夏の期間だけバスがあるだけだった。黒部ダム(1963竣工)に行くためには歩くしかなかった。昨日立山から下ってきた一の越に登り、そこから東一ノ越~タンボ平~黒部平へと下った。

雷鳥沢から黒部ダムまで約11キロ余りの行程だ。タンボ平には広々とした緩やかな斜面があった。テントシートを敷いて滑り降りた記憶が残っている。前日に険しい岩場を含む山道を16キロ、休憩を含め10時間歩いていたが、その疲れはなかったと思う。いまでは考えられないことで、若かったのだと思うほかない。

黒四ダム見学

黒部ダムまで歩いたのは登山を楽しんだり、黒部ダム観光のためではなく、関西電力黒部第四ダム事務所を訪問するためだった。どういう経緯だったのかは知らないが、教授が関電に申し入れてくれたらしい。歩くほかなかったので同行したのは数人だけだったと思う。

当時の教授の影響力は大きかったのだろう。登山姿の我々を、関電の人たちは快く迎えてくださり、秘境黒部のこと、黒四ダム建設の難工事秘話、巨大ダムの役割・効果などを話していただいた。その上、関電専用鉄道で欅平まで送っていただいた。いま思えば、大変ありがたく貴重な体験をさせていただいた。当時は学生の身で、そのことのありがたみがよく分かっていなかったと、いま思う。

羽咋海岸にて

黒部からの帰途、ひとり羽咋海岸へ向かった。羽咋といえば、車で走れる砂浜、千里浜なぎさドライブウェイを連想するが、それは後年になってからである。当時、なぜ羽咋海岸へ行こうと思ったのかは定かではない。立山・黒部からの帰り道でどこかキャンプをできるところがないかと探した結果であることは確かだ。5人用テントを持参していたので、山に行った後は海辺でキャンプをしようと思ったからだ。

羽咋海岸のキャンプ場を調べると、能登千里浜シーサイドオートキャンプ場が見つかったが、ここにテントを張ったのかどうかは分からない。ゴルフ場がふたつもできているが、そのどこかだったかもしれない。 むかしは規制がゆるく、キャンプ場でなくてもテントを張ることができる場所がたくさんあった。夏場はテントを持っていればどこでも寝られるので、貧乏学生にとっては格好の旅のスタイルだった。

待ち人来たらず

羽咋でテントを張って友人と合流する計画だった。剣岳立山へ一緒に行った仲間(3~4人)は、黒部湖へ行かず富山へ引き返した。私は黒部湖~欅平経由で富山に移動し、そのまま羽咋へ行って浜辺にテントを張って彼らと合流するという手筈だった。

ところが待てども彼らは来ない。宿泊にお金はかからないので、三日待ったが結局誰も来なかった。携帯電話のない時代、連絡をとる手段がなかった。室堂から富山までのケーブルカーやバス、電車の事故があったのかもしれないと心配したが、そうではなかった。

立山雪渓の水

一週間ほどあとに分かった。五月丘の下宿にもどると一通の葉書が届いていた。

「富山に移動するとき3人が体調不良になった。腹痛、下痢の症状がでた。一人は自然に治まったが、二人は富山の病院で診療を受け、一人は入院した。連絡できず申し訳なかった。」

そんな趣旨の内容だった。病気であれば来れなくて当然だったし、連絡のしようもなかったのだ。後日会ったときに、どうして腹痛になったのかを聞いた。食あたりではなく、立山の雪渓で穴を空けて滲み出した水を飲んだのがよくなくて、それに過労が重なったことが原因だという。私もゴクゴクと飲んだ。冷たくておいしかった。その後、何の症状もなかった。丈夫な胃腸をもった体を授かった親に感謝するばかりだ。

参考サイト

Source: Wikipedia Commons - CC 表示 3.0

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