戦後70年

世界の中で

第1回 信頼回復への道

信頼回復への道

サンフランシスコ講和会議で国際社会に復帰した日本。信頼回復をどのように進めてきたのか。インドネシアなど東南アジア諸国には賠償を支払い、経済進出が始まる。植民地支配についての請求権で難航した日韓会談。岸信介とパク・チョンヒ大統領が会談し、1965年日韓基本条約に調印。さらに90年代に個人の補償要求が高まると、河野談話、村山談話、アジア女性基金、そして平和友好交流計画を進めた。日本外交の軌跡を見つめる。

第2回 冷戦 日本の選択

冷戦 日本の選択

冷戦の時代、日本は沖縄返還と日中国交正常化という外交成果を上げた。しかし、1971年頭越しの米中和解という外交的試練を受ける。この時期、尖閣諸島をめぐって米、台湾の水面下の交渉があった。近年発見されたホワイトハウスの秘密録音から繊維交渉も絡んだ舞台裏を追跡する。日中平和友好条約締結後、日本は中国への経済援助を続け、アジアの経済発展の時代を迎える。大平正芳の外交を中心に冷戦終結までの外交を見つめる。※音声なし(コピーすると消失)

第3回 平和国家の試練と模索

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世界各地で頻発する紛争、そして、テロとの戦い…。東西冷戦の終結後、国際社会が新たな脅威に直面する中で、日本は自ら判断し、責任を果たすことが求められた。外交の柱としてきたアメリカとの同盟関係、そして平和憲法の枠組みの中で、日本はどのような選択をしてきたのか?交渉の最前線にいた外交官たちの証言をもとに、この時期大きな転換期を迎え、揺れ動いてきた日本外交の姿を振り返る。

NHKアーカイブ

1992年に放送されたNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」から、総力戦に日本がどのように敗れたのか2回シリーズで見る。1回目は、「破たんした資源輸送計画」。資源の少ない日本にとって海外から資源を運ぶことが勝敗の鍵。しかし輸送船は潜水艦などの攻撃を受け、あまりにも楽観的な海上輸送計画は破たん、敗戦への要因となった。近代総力戦の実態に対する指導者の認識の甘さを検証、いま学び取れる教訓を考える。 出演者 【ゲスト】ノンフィクション作家…保阪正康,【キャスター】森田美由紀

未来への選択

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 未来への選択 第3弾

第1回 高齢化社会 医療はどう向き合ってきたのか

医療

戦後70年の今年は日本人の暮らしの中にある問題を取り上げる。第1回のテーマは高齢化社会。「生命行政」を掲げ全国に先駆け老人医療費無料化を実施した岩手県旧沢内村や、80年代から高齢者を在宅で支えてきた多摩市の病院を中心に、医療の現場や国の政策担当者がどのように対応してきたかを証言で振り返る。超高齢社会が進み“老い”の課題が増える未来に向け、とるべき進路とは?

第3回 公害先進国から環境保護へ

公害

日本の環境問題への取り組みは、高度経済成長期の「公害」の発見からはじまった。三重県四日市では、石油化学コンビナートから出る亜硫酸ガスにより、住民が喘息に悩まされた。漁師の野田之一さん(83)は語る。「最初は四日市が賑わうから両手を挙げて賛成したけど、こんなことは想像もしなかった」。四日市を教訓として、住民達がコンビナート進出を阻止したのが静岡県三島沼津の住民だった。主婦の山本保子さん(81)は「勉強会を繰り返しました。子どもたちを苦しめるわけにはいかなかった」という。

行政は公害の対策として、1967年には公害対策基本法を成立させた。さらに1971年には環境庁を設立。この頃、良好な環境を享受するのは基本的人権であるという考え方「環境権」が共有されるようになる。北海道の伊達市では、火力発電の建設をめぐり、環境権を旗印に市民たちが闘った。結果として、市の条例に環境権がうたわれるようになった。そして日本は徐々に環境を重視する社会へと変貌していった。

第4回 格差と貧困

豊かさの果てに

戦後の日本は、格差や貧困に、どのように向き合ってきたのか。 敗戦後、新憲法の25条は、「健康にして最低限度の文化的生活を営む」権利を保障した。この生存権の理念を実現すべく、病床から生活保護の充実を求めて裁判を起こした朝日茂さんの「朝日訴訟」(1957年)。支援の輪とともに、日雇いや中小零細企業の労働者を支援する個人加盟の労働組合が全国に広がる。

1965年、国は貧困世帯の調査を打ち切り、地方への補助金や公共事業などの経済対策で所得再分配を行う政策を推進。正社員になれば安定した生活がおくれる日本型の「企業社会」が作られていく。高度経済成長期、低所得者層の社会調査を続けてきた経済学者の江口英一は1972年に“働いても働いても最低限の生活が送れないワーキング・プアーworking poorが存在する”と指摘。しかし、世界第2位の経済大国となり「一億総中流」の意識が広がる中で、格差と貧困は注目されることはなかった。そしてバブル崩壊後、派遣法が改正されて非正規雇用が大量に生まれると、ようやく人々は格差と貧困を社会問題として「再発見」する。

敗戦から2008年の年越し派遣村まで、生活保護と雇用の現場で声を上げてきた市民たち、そして社会保障政策を担ってきた官僚や政治家などの証言をもとに、格差と貧困の戦後史を描く。

第5回 教育

知識か考える力か

GHQの下スタートした戦後日本の民主主義教育。中学が新たに義務教育になった。三重県・尾鷲の中学教師、内山太門さん(95)は、「それまで中学に行く人は微々たるものだったから活気づいた」と語る。全国で地方独自のカリキュラムが模索され、山形の「山びこ学校」で生活綴り方を進めた無着成恭さん(87)は語る。「子どもたちが作文を通して、自分たちの身近な問題を真剣に考えるようになった」。

国民の教育水準を飛躍的に向上させ、高度成長をひた走った日本。尾鷲中でも、「金の卵」を育てようと、職業教育に注力する。その一方、“落ちこぼれ”や“無気力”など問題が発生し、“詰め込み教育”が自ら考える力をつぶしているとの批判が生じ、尾鷲中学では、校内暴力事件がおこった。

1980年代以降、国も“詰め込み教育”からの脱却を模索。中曽根政権下の臨教審提言を受けた文部省は、“ゆとり教育”へと転換。「総合的な学習の時間」を創設し、教える内容は3割削減する方針を打ち出す。しかし、学力や国際競争力の低下を危惧する声が高まった。2002年、文科省は「確かな学力」を向上させる「学びのすすめ」を発表。文部科学事務次官だった小野元之さんは語る。「このままでは日本が危ない。文科省は学力を軽視しません」。2011年から、再び学習内容拡大へと舵を切り直した。

その間、日本の公教育予算の対GDP比はさがり、現在OECD参加国の中で最低レベルに。また、子供をとりまく経済環境も深刻化している。問題に取り組むNPO代表の青砥恭は調査を行った結果、「親の経済的な差がそのまま学力の差につながっている」という。 あまねく平等な教育を、と始まった戦後教育。その変遷を、文部官僚、教師などの証言をもとにたどっていく。

政治の模索

第1回 保守二大潮流の系譜

経済と自立

国土が焦土と化し、人々の生活が困窮する中でスタートした戦後政治。1955年に結党された自民党は、“豊かさ”の実現を優先するのか、それとも国家としての“自立”を優先するのか、吉田茂・岸信介という二人の首相に代表される二大潮流がせめぎ合いを続けてきた。番組では、新たに発掘した史料や関係者へのインタビューなどを通して、終戦直後から1960年代にかけての時代を中心に、政治のあゆみを見つめ直す。 【ゲスト】田原総一朗,東京大学名誉教授…御厨貴

第2回 豊かさの分配

政治変革

1970年代「日本列島改造論」を掲げ、政治の表舞台に現れた田中角栄。道路や鉄道網などの公共事業によって、全国に富を分配するシステムを確立し、権力を手にしていく。しかしその後、日本は低成長時代へ。政治は田中が生みだしたシステムからの変革を模索していく。NHKのアンケート調査で「戦後を最も象徴する人物」の第1位となった田中角栄。当時の映像や録音をひも解きながら、高度経済成長期以降の政治の潮流を見つめる

 

きのこ雲の下で何が起こっていたのか

広島に原爆が投下された直後の人々の惨状を捉えた写真が世界でたった2枚だけ残されている。投下3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影された。撮影したのは松重美人さん(1913-2005)。


戦後、米進駐軍に押収された写真が公表されたのは1952年9月のLife誌だった。核兵器のほんとうの恐ろしさを示す写真が隠されていた7年の間に、冷戦下のアメリカ人は核兵器が必要だと考えるようになっていた。


今年、NHKは居合わせた被爆者の証言、最新の映像技術をもとに、50人あまりが写る写真の真実に迫った。原爆特有のやけどを負った人やいまにも亡くなろうとしている人々…。真っ黒焦げになった赤ん坊を抱いた少女…。生と死の境界をさまよう人々の惨状が映し出されている。

特攻~なぜ拡大したのか~

爆弾を抱え航空機ごと空母などの標的に体当たり攻撃する「特攻」。昭和19年10月フィリピン戦で陸海軍が始めた特攻作戦は終戦まで加速度的に拡大する。魚雷を改造した水中特攻兵器やボートに爆弾を積んだ特攻舟艇など特攻専用の兵器も次々開発され4500人を超える戦死者を出した。その多くは20歳前後の若者だった。搭乗員の死を前提にした他に類を見ない作戦はなぜ拡大していったのか。軍の機密資料と証言をもとに探る。

戦争とプロパガンダ

~憎しみはこうして激化した~
国民を戦争へと駆り立てるために、 国家はどのように映像と情報を操作するのか。 太平洋戦争時の極秘資料と映像から、 アメリカの「映像プロパガンダ」の原点を解き明かす。