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【戦後70年】特攻(7)遺族は問う「国のため逝きたる御霊は安らけきか」

追悼式典で献花する曽我部隆二飛曹の弟、勲さん=平成26年10月25日、愛媛県西条市(宮本雅史撮影)

 昨年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で「神風(しんぷう)特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれた。

 敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット基地で海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後中佐=を指揮官に5人で編成され、25日にレイテ沖海戦で敵空母群に突撃、護衛空母セント・ローを撃沈するなど大きな戦果を挙げた。式典は敷島隊をはじめ、愛媛県出身の特攻戦没者を慰霊、顕彰するのが目的で、全国から遺族らが参列した。

 式典には連載4回目で紹介した曽我部隆(たかし)二飛曹=当時(19)=の弟、勲さん(84)も参列し、遺族代表としてこう訴えた。

 「血潮たぎる若者が祖国を守らんと志願し、靖国神社で会おうを合言葉に陸、海軍合わせ240万人にも上る同胞が国難に殉じましたが、その御霊(みたま)は今、靖国神社で安らかに鎮まっているのでしょうか。皇室をはじめ歴代総理大臣も公式参拝すらできないのです。これが独立国日本の姿でしょうか。私は尋ねたい。『国のため逝きたる御霊は安らけきか』と」

 勲さんは「戦争に負けると考え方が違ってくる。教育が違うから、考え方が根本的に違う人が大勢を占めるんじゃないか。私は12歳から15、16歳まで、世間の変化や父の姿を見て生きてきた。苦しい時があって、苦しい思いをした人がいる。そういう人がいたから今の日本があるんだと伝えていきたい。それが私の務めだ」と語気を強めた。

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 愛媛県八幡浜市の山本正治さん(86)は7人きょうだいの三男。長男と次男が戦死している。

 長男の精(きよし)上飛曹=当時(23)、戦死後少尉=は20年3月21日、第1神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊の隊員として、特攻兵器「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機で鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、大東島周辺で戦死した。次男の富仁男二飛曹=当時(20)、戦死後少尉=は神風特別攻撃隊第3御盾252部隊の隊員として同年4月6日、250キロ爆弾を抱いて同県の第一国分基地を出撃し、沖縄海域で突入した。

 正治さんは「精は18機で出撃したが、130機のグラマンの襲撃に遭い、戦死したらしい。富仁男は戦艦大和を守るため4機で出撃して突っ込んだ。2人の遺骨は一緒に戻ってきたが、中は空っぽで、海軍少尉と書かれた札がくぎで打ち付けられてあっただけ。母親は毎日、お墓に参っては泣いていた」と話す。

 正治さんは当時、愛媛師範学校男子部に通っていた。卒業後に教員となり、41年間務めた。「先の大戦で尊い命を自ら国にささげた人たちのことを、それは人間的に重要だということを教えることは、生きている者の務めだと思った」と教員になった理由を語る。

 さらに「精は軍隊で国のためにいい仕事をするというのが夢だった。富仁男はいいかげんなことができない、何にでも活力を生かしていた人。だから、自分も教員として、日本民族の将来にわたる平和と人間の価値観を大事にしたいと思った」と続けた。

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 現在の教育には注文が多い。

 「今の子供には自分さえ良ければいいという利己主義が蔓延している。教育がゆがんでいるのかもしれない。教師は素晴らしい子供に成長させるという意欲、方向性が見つからない状態になっている」

 「人間関係のぬくもりがないし、日本人の伝統的な国民性が失われてしまっている。寂しい思いでいっぱいだ」

 若い後輩たちにはこう言い続けてきた。

 「君も立派な先生なんだ。立派な先生がいいかげんな頼りないことではいけない。自分が正しいと思うことははっきり口に出して、親に理解を求める、親に言わなければならないと」(編集委員 宮本雅史)