【戦後70年】特攻(6)操縦士との文通1年間、婚約者は「私が本当に生きた時間」

筆者がその女性と初めて会ったのは10年余り前だった。女性は、第105振武(しんぶ)隊の隊長として昭和20年4月22日、鹿児島県の知覧飛行場を出撃し、沖縄周辺海域で戦死した林義則少尉=当時(24)、戦死後大尉=の婚約者だった。
小栗楓さん(95)。初めて会った日は林少尉の命日だった。「私たちはあの人たちのおかげで生かさせてもらった。あの人たちの分まで生き抜かなければ…」。こう言うと部屋の遺影に何度も手を合わせた。
「お墓にお参りさせてください」と言うと、彼女は「ちょっと待ってください」と言って腰を上げた。10分ほどして戻ってくると、薄化粧をし、きれいに身だしなみを整えていた。
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楓さんと林少尉は岐阜県上之郷村(現御嵩(みたけ)町)生まれ。小学校の同級生で、2~4年は同じクラス。5年のときに少尉が転校した。
2人が再会したのは特攻出撃する1年前の19年3月23日。少尉が戦闘機の操縦士として訓練を受けるため満州に渡る挨拶に、楓さんが戸籍係として働いていた村役場を訪れた。別れ際、懐かしさのあまり「大空を御楯と翔ける雄姿にも いとけなき日の面影残る」と詠んだ紙切れを渡した。
2日後、少尉から電報が届く。「ワレトニツクキミサチアレヨシノリ」。少尉の真意は分からなかったが、これをきっかけに1年間にわたる文通が始まった。
手紙は軍隊調の簡潔な文面で、甘い言葉は一言もなかった。楓さんは文言から少尉の居所を推測し、地図とにらめっこしながら一緒に空想の旅を始める。手紙のやりとりは頻繁になり、いつしか会話しているような文面に変わっていった。「一緒に暮らしているような気持ちになった」
求婚の言葉はなかった。だが、一度「ワイフと言うのは有難いものだなァ」と書かれていた。出撃直前の両親宛ての手紙に「小生がいなくなると当分は淋しいと思うから、父母様でよく慰めてやって下さい。写真機と時計を楓に渡して下さい」ともあった。
少尉から最後のはがきが届いたのは20年4月末のことだ。「いよいよ今日出撃する。この期に及んで、何も言うことなし。よく尽くしてくれたお前の心を大切にもってゆく。君ありて我れ幸せなりし。体を大切に静かに平和に暮らしてくれることを祈る」
楓さんは「はがきを読んだときは、これでもう最後だと思った。私が本当に生きたのは19年3月から20年4月までの1年間でした」と振り返った。
遺品が戻ってきたのは20年4月末。冬用の軍服と時計にカメラ、満州で撮った写真…。時計はいつも手に巻いて使った。時計の針の音が大尉の鼓動のように聞こえ、「遺されし時計の刻む針の音は 脈拍のごと胸に伝い来」と詠んだ。
20年10月、戦死公報が届く。役場で戸籍係をしていた楓さんは自分の手で「林義則」の文字の上に戸籍抹消の朱線を引いた。「亡き人の数に入れるか今日よりは 戸籍の朱線胸に痛しも」。楓さんは「末期の水をとってあげる気持ちだった」と振り返る。
遺骨が届いたのは21年6月。ただ、白木の箱で、中には何も入っていなかった。葬儀では、入籍していなかったため親族の席には座れなかった。一番後ろで読経を聞いた。祭壇に3首を短冊に書いて供えた。
「一年を経て還り給いし君の御魂(みたま) 全身をもて 抱き参らす」
「待ち侘びし御魂還る日近ければ 心粧いぬ悲しみに堪えて」
「我を遺きて遂にゆきしか我を遺きて 武士道とふものはかくも悲しき」
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昨年夏、数年ぶりに楓さんを訪ねた。一回り小さくなったように感じた。聞くと体重25キロだという。ベッドの傍らには軍服に身を包み、日本刀を片手に九九式襲撃機に乗り込む婚約者の写真と小さな位牌(いはい)がある。
「沖縄にも行きたいのだけれど、こんなに腰が曲がってしまってはねえ」。腰をさすりながら、ため息をつくと話し出した。
「私が死んだら、お骨は沖縄の海に沈めてほしい。あの人を捜して巡礼の旅に出るつもり。あの人に会えるかしら」。涙をあふれさせ、言葉をつないだ。
「私はあの人のおかげで生かさせてもらった。でも今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない。あの人たちは何のために死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを、今の日本人は忘れてしまったのかしら」
楓さんの戦後はまだ、終わっていない。(編集委員 宮本雅史)