【戦後70年】特攻(3)「酒 酒 酒 酒に負けた」出撃間近 乱れた筆跡 揺れた心

森丘哲四郎少尉の日誌には、故郷に思いをはせる記述も多い。
「お盆の十六日、村では盆踊りをやっていた頃だ。昨年の今日頃を想(おも)い見なむ。祖国の人々の幸福のために吾は戦う」(昭和19年8月16日)
「竹の子は地中に芽生えはじめた頃とは想わん。スカンボ、ネコヤナギ、春らしき形が地上に形成された頃と、故郷を思う」(20年3月29日)
訓練を通して戦う気持ちが固まる一方、故郷を思う気持ちが強くなってきたのだろうか。
特攻要員の命を受けた1カ月後の20年3月22日には「久方振りに富山からの便りに接す。手荒く嬉(うれ)しき感、目頭熱くなるを知りたり。故郷からの便りほど嬉しきものはない。ただの葉書(はがき)一本にても快適なのに、封書ときたからには小躍りして戦友に見せ合って読むのです」と喜んでいる。
その後に続く文章には葛藤が見える。「それが最近特攻隊の一員となりてより、実に故郷からの便りの来んことを願うようになった。出郷の折は『行きます』と断言して来た自分も、いまは姉上の封書に随喜の涙を流す哀れさだ。いかでか国を想わざらめや」
揺れる心を抱えながら訓練を続ける森丘少尉。同月31日、全員集合の号令がかかると「祖国にすべてを捧(ささ)げる秋(とき)が来た。栄光の感激、身は粉と砕ける時がきた。幸福の極みである」と、出撃に向け強い気持ちがもたげている。
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だが、4月1日、特攻出撃のための元山海軍航空隊(朝鮮)から鹿屋基地への移動が中止になると「今の心境にてはただ速かに皆と別れたい感じである。喜びも悲しみもなく考えもない。ただ無である」と心境を記す。感情を抑え平静さを保つためか、大きな文字で「無」と書かれている。
ところが、その後の記述で荒れる心情がかいま見えた。「私の美しき心の表現となさむために作り来たこのノートも、4月1日の夜をもって全てが失われたり。即(すなわ)ち酒だ。酒 酒 酒。すべてを破壊するものは酒だ。私は酒に負けた。父上の教えを守り得なかった」と締めくくっている。「酒 酒 酒」の字は大きく乱れている。
翌2日の移動も中止となったが、「海軍の生活では常に父上の教えを守りました。(酒に負けたと書いたのは私の主観をもって見たる良心的反省です)そして誰にも負けない修養をしたと信じます」と前日の日誌の文言を釈明し、自信をのぞかせた。
祖国を守る意志、長年の夢の諦め、特攻作戦への不満…。さまざまな思いが交錯する中、森丘少尉は何に心の安らぎを求めたのだろうか。
19年12月18日には茶に関する記述がある。「元山空に来てから茶道なるものに意を入れ得ることが出来る日がある」。森丘少尉は東京農大時代から茶道を教わり、元山海軍航空隊時代には楽浪焼きの抹茶茶碗(ちゃわん)を買い求めている。
記述は続く。「角あらば人間生き苦し、角なきを尊ぶは茶道なり…略…茶室の爐(ろ)にたぎる茶釜の湯気こそ美しく、その音こそ美味なり。静かに点(た)つる小さな茶碗、緑にもあらず白にもあらず、古めかしき茶器もまたよきかな。来りて坐する人々、皆美しき心の主にして静けさを愛する自然人なり…略…お茶は若き戦斗(せんとう)機乗りには良かものなり」。茶が心の慰めになっていたようだ。
森丘少尉の感情が赤裸々につづられた日誌は20年4月3日で終わった。
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妹のまさゑさんの夫も早稲田大から学徒出陣で陸軍に入営した。特攻要員となったが、終戦で出撃は見送られた。同じ境遇の兄と夫で生死が分かれた。それだけに兄を慕う思いは強い。
森丘少尉は名刺を数枚、遺品として残している。まさゑさんは「字を書くのがあまり好きではなかった兄が日記を残していたのは、生きた証しを誰かに託したかったからだと思う。名刺も燃やさないで残したという兄の気持ちを思うと、つらい」と涙ぐむ。
そして続けた。「なぜ死ねたのか。乱れた字で『酒 酒 酒』と書かれているのを見ると、心の中で葛藤していたのがよく分かる。自分一人が死んで家族が救われるならと思ったのでしょう」
森丘少尉の日誌や特攻隊員の声からは、悲痛な心の叫び声が聞こえる。特攻作戦の是非を超越した特攻隊の誠が伝わってくる。(編集委員 宮本雅史)
体当たり戦死者、沖縄戦だけで半数
沖縄戦では、九州や台湾の基地から飛び立った特攻隊の攻撃が繰り返された。特攻隊戦没者慰霊顕彰会の記録によると、昭和20年3月中旬から終戦までに航空機の特攻で海軍1957人、陸軍1031人が沖縄方面で戦死したとされ、沖縄戦だけで特攻戦死者の半数近くを占める。
陸海軍の特攻による連合国軍への総攻撃が始まったのは20年4月6日。この日だけで海軍279人、陸軍61人が米艦などに体当たり攻撃を敢行した。この猛攻の背景には、戦艦「大和」以下10隻の「水上特攻」を成功させる狙いもあった。
艦隊は6日午後、山口県沖から出撃した。航空機による特攻で米艦隊をくぎ付けにしている間に艦隊が沖縄に突入して艦を座礁させ、“防空砲台”となって砲撃。砲弾が尽きれば、乗員らが上陸して米側に突撃するとされていた。しかし、艦隊は沖縄への突入を試みたものの、大和を含む6隻が7日午後に鹿児島県沖で撃沈され、大本営は作戦を中止した。
5月下旬には戦況の悪化を受け、大本営は沖縄での作戦を縮小し、本土防衛へとかじを切り始める。6月23日には日本側の組織的抵抗が終結した。こうした状況下でも、航空機特攻は終戦まで続けられた。