【戦後70年】特攻(2)「父に幸福な生活、母に愉快な生活をなしていただくべく戦うこと」特攻の命が下った日、予備学生は書いた

「特攻隊名簿に自分の名前を見たときは、顔面蒼白(そうはく)になったと思う。覚悟はしていたが、全身の血が逆流したような気持ちがした」
こう振り返るのは川崎市の元特攻隊員、江名武彦さん(90)だ。神風(しんぷう)特別攻撃隊正気隊の隊員として昭和20年4月28日と5月1日の2回、鹿児島県の串良(くしら)飛行場から出撃し、不時着などで帰還した。
江名さんは18年10月、早稲田大から学徒出陣し、海軍飛行14期予備学生として訓練を受けた。
「串良に行ってからは、特攻出撃の夢を見てはうなされた。自分が敵艦を目指そうとすると、敵の遊撃機が向かってくる」
2回とも出撃前夜、遺書を書き、遺品の整理をした。「地獄に落ちるような気持ちは1回で完結したかった」。そんな気持ちを切り替えさせたのは自己犠牲の精神だったという。「親と日本を救うには、自分たちが犠牲になることによって、何か再生の道が開けるのではないかという、人柱になる気持ちだった」
出撃時、18歳の海軍飛行予科練習生(予科練)から「笑って死にましょうね」と言われ、潔いと思った。「予科練は若くて血気盛ん。生への執着がなかったとは言えないが、われわれのように娑婆(しゃば)を知っている者と違い、特攻隊員としての立ち居振る舞いができていた」と振り返る。
江名さんと同じ海軍飛行14期予備学生で、東京農業大から学徒出陣して特攻隊員となった富山県黒部市出身の森丘哲四郎少尉=当時(23)、戦死後大尉=の日誌がある。
森丘少尉は20年4月29日、神風特別攻撃隊第5七生隊員として鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、南西諸島海域で特攻を敢行した。日誌は大学ノート8冊に及び、出撃直前までの2年半の心境がつづられている。文言は江名さんの回顧を裏付けるように揺れている。
海軍に入団直後の18年12月21日。舞鶴海兵団で教班長から「武士道とは」と聞かれ、「桜の花の散るが如(ごと)く、腹を切ることのできる人」と答えたと記した。19年2月14日には、土浦海軍航空隊で教育主任に「諸子の命は八月までだ」と訓示され、「何たる無上の栄光よ。一日を大切にして身の修養を忘れず、最大栄光の下に死なん」と意気込む。
特攻隊の命が下った20年2月22日には「一大記念すべき日なり。私の身を心を、祖国に捧(ささ)げ得る日が約束された日だ。何たる喜びぞ…略…われら特攻隊員となり得て散らんも何か心残りあらん」と書いた。
剛毅(ごうき)な姿勢は、家族と国を守るとの思いから発している。「私の如き一匹死するも可なり。父に幸福な生活、母に愉快な生活をなしていただくべく戦うこと、即(すなわ)ち祖国に、上御一人(かみごいちにん)(天皇)に対し忠になるのである」(同年3月23日)
ただ、夢を語った部分には心の葛藤がうかがえる。妹の名和まさゑさん(89)によると、森丘少尉は、氾濫する黒部川対策に灌漑(かんがい)用水路を整備するなど農業政策に尽力した父、正唯さんの影響で農業に関心を持ち、農場と牧場の経営という夢を抱いていた。
農業への思いは海軍入団後も変わらない。雨の日が続くと「農民は雀(すずめ)の如く喜んでいることだろう。俺も娑婆にいたなら。然(しか)し今はそうはいかぬ。毎日の雨のため飛行作業出来ず。折角(せっかく)これまで磨いた腕も台なしだ。吾人は天をうらむ。吾人が天をうらめば、農民は如何(いか)にするや」(19年7月6日)と揺れる心を記す。
同年9月26日には「吾生きて帰りなば、カリフォルニア州にて、必ずやまた支場分場を、ニュージーランドに於(おい)て倉庫を作らむ」と述べ、農場設計図も添付して夢を確認している。
まさゑさんの長女で、少尉のめい、まどかさん(67)は「死にたいと思う人間が夢を書けるでしょうか。決して死にたくなかったのだと思う。でも、いろいろなものを守るためには死ななければならなかった」と話した。(編集委員 宮本雅史)