NHK教育TV「歴史は眠らない」で4回に分けて放送された。以下はNHKホームページから転載・編集した。
日本人にとって“国花”とも言えるサクラ。なぜ日本人はサクラに惹かれるのだろうか。 歴史をさかのぼれば、古くから桜は日本人の営みと深く結びついてきた。桜の開花は稲作の始まりを告げ、咲き具合で作柄の吉凶を占う花であり、平安貴族にとっては桜を愛でて歌を詠むことが風流の証であり、近代に至っては国民皆兵を進める軍国主義のシンボルにもされてきた。 そして近年では、サクラをテーマにした様々な歌が大ヒットを記録し、出会いと別れを象徴する人生の花として、日本人の心に深く根を張っている。時代ごとの人々のサクラへの思いを見ることを通して、日本人の精神とその変遷を読み解いていく。
第一回は気がつかず録画できなかった。HPやブログによれば、「花はサクラ」と愛でられるようになったのは平安時代。奈良時代は桜よりも梅に人気があったそうで、万葉集では梅120句に対し桜は40句だ。それが平安時代になって内裏の梅が桜(左近の桜の誕生)に植えかえられ、嵯峨天皇が神泉苑で桜の花見を催すなどして桜が人気になったという。古今和歌集(醍醐天皇勅撰)は桜が詠われた和歌が一番多く、86句ある。次ぎに多いのが梅(29句)だそうだ。
大衆の花見文化が広がるのは江戸時代。幕府は将軍家に仕える天海僧正の進言により、上野山に寛永寺を創建。名高い吉野山の山桜を大量に移植した。江戸庶民にとって初めてのサクラ並木の出現だ。江戸の発展をにらむこうした幕府の戦略が、民衆の花見を後押ししたのだ。さらに享保年間、吉宗は、庶民のストレス解消のために江戸各所に花見の名所を次々と開発した。士農工商の世にあって、人々は貴賤を問わず無礼講が許される場として、花見に熱狂していく。
明治の日本。花つきが豪華なソメイヨシノは、文明開化の象徴として人気を集め、東京から地方へ急速に拡大した。さらに、日清日露戦争とともにソメイヨシノは各地の軍隊施設や忠魂碑などに植えられた。サクラはしだいに軍国と結びつき、日本の象徴、「国花」へと祭り上げられていく。さらに時代が昭和になり、日中戦争、太平洋戦争が拡大していくと、散るサクラの美しさが潔い死を美化するものとして盛んに喧伝され、サクラは「散華の花」へと変貌を遂げた。
戦時中、燃料用の薪にされるなど荒廃の憂き目にあったサクラ。戦後も経済復興に邁進するなかで、道路拡張や宅地造成などで伐採されるサクラが後を絶たなかった。人々のサクラへの思いは薄らいでいくばかりだった。そんなさなかの昭和35年、電力不足解消のために国策として始まった岐阜県・御母衣ダムの建設。工事が進むさなか、水没地域にある樹齢400年のサクラの巨木を救おうと立ち上がった人物がいた。当時、サクラ博士の異名をとった笹部新太郎だ。不可能と言われた移植は見事に成功し、サクラは2年後、満開の花をつけるまでに再生した。この出来事を契機に、各地でもサクラを植えようという動きが起こり、日本は再びサクラの国への道を歩んでいく。
飛耳長目:サクラと日本人