楽園の征服
Date: 1996年10月16日
10月12日、米国はコロンブス・デーと呼ばれる祝日でした。米国政府は、1492
年のクリストファー・コロンブスによるアメリカ発見を祝い、1934年にこの日を
国民の祝日に指定しました。米国では市町村や川、大学、公園、通りなどに米国
史上の人物の名前を付けることが多く、中でもコロンブスはジョージ・ワシント
ンの次に多いということです。また記念碑や銅像の数では、コロンブスのものが
全米一となっています。
この事実を知った私は、コロンブスをここまで称えるということに米国の価値
観や信念が表れているのではないかと思い、いわゆるこの「偉大な米国発見者」
について興味を持ち始めました。
ちょうどその頃、カークパトリック・セールが書いた『The Conquest of
Paradise』に出会いました。これは、7年間にわたる徹底的な研究を基にして執
筆された書物ですが、その中で描かれているコロンブス像は、私が学校で習った
コロンブスとは全く異なっていました。以下に、その中から私が特に印象に残っ
た箇所を引用します。米国の歴史的な英雄に関する描写です。是非お読み下さい。
・まず第一に彼の名はコロンブスではなかった。イタリアのジェノバで生まれ
Christoforo Colomboと命名されたが、その後ポルトガルではChristobal Colom
となり、彼が最も名声を上げたスペイン時代はCristobal Colon(コロン)であ
った。現在英語圏で一般的になっているコロンブスというラテン語化された名前
を、彼自身が生前目にしたことは恐らくなかったであろう。[以降、本文ではこ
の本名であるコロンを使用する。]
・第二に、コロンの目的は大陸発見ではなく、海の向こうの伝説の国で黄金を獲
得することであった。スペイン国王との正式な契約のもとで、「手に入れたもの
の10分の1を自分のものにする権利」を持っていた。コロンは黄金発見に向ける
意欲を公然と表明し、すべてをその目的の達成に捧げていた。
・そして、もちろん米国の発見者はコロンではない。最初に彼の視界に入り、上
陸した島は南北アメリカ大陸に近接する列島の一部で、そこで生活していた何百
万人もの原住民はそれ以前よりその存在を知っており、現実には人類は何千万年
も前にその島を発見していた。近代の考古学者は、コロンが1492年に上陸した島
には、その500年前からすでに人が住んでいたと主張している。
・さらに、コロンが上陸したバハマ諸島が地理的、生物学的に関係を持つ今日の
北アメリカ大陸は、1000年にはすでにヨーロッパ人によって発見されており、人
間も短期的に滞在していた。
・ヨーロッパ人が見つけて上陸したことを「発見」と言うのであれば、「米国発見
者」として称えられるべき人物は恐らくLeif Eirikssonであり、その祝日は10月9日
となるべきである。
・さらに、1492年以前に北アメリカを目にし、上陸した例が数多くあったという
信憑性の高い証拠もある。19世紀の歴史家、Henry Harisseは20以上の航海、発
見の事例を上げているのに加え、彼の後にも専門家が数々の可能性を指摘してい
る。
・このようにコロンの上陸が本当の意味での米国大陸発見でなかったとすれば、
その当時から500年後の現在に至るまで、彼がこれ程までに重要視されたのはな
ぜか。西欧がそれまで知らなかった土地を1人のヨーロッパ人が出くわしたこと
が重要なのであれば、コロンの上陸は他のヨーロッパ人のそれとどのように違っ
ているのか。また、それを世界の歴史上、重要な転換期であると位置付けている
のはなぜなのか。
・これらの疑問に対して、この本の著者であるセールは次の5つの答えを提示している。
ー恐らく最も重要なのは、カスティリャ、レオン、シシリー、グラナダな
どを共同統治する国王と王女の命令による正式な派遣であったこと。
ー第二に、コロン自身の航海日誌、および王室の秘書による記述が残っていたた
め。特に王室の秘書による第三者の立証は強い裏付けになる。また、コロンは、
有形の証拠として、それまでに見たことのない人種をヨーロッパに連れ帰った。
ー第三に、無事に帰還したことで、その後の航海につなげたこと。
ー第四に、印刷技術の発明により、かなり急速にヨーロッパ中にニュースが広まった。
ー第五に、それ以前の冒険家による航海よりも、より壮大な目的を掲げ、望んだ通
り、貿易、征服、植民地化、搾取が始まったことである。
・したがって、最初の発見かどうかは問題ではなかったのである。1492年10月12
日が時代を超えて重要な日となったのは、1人の外国人が小さなバハマ諸島に上
陸したためではなく、それがヨーロッパの世界征服の始まりにつながったためで
あった。
・コロンは原住民を見るやいなや、すぐに彼らを蔑視し始めた。島に上陸した第
一日目の航海日誌からも明らかである。「原住民は生まれたままの全裸で歩き回
っている。それは女性も同じで、体つきも顔つきも良い。我々と非常に仲良くな
った。自分の持ちものを善意からすべて与えてしまう。見たところすべてにおい
て貧しいようだ。鉄も武器も持たない。武器を持たないどころか、その存在すら
知らなかった。私が剣を見せたら刃の方を持って手を切った程である。彼らは立
派な召使いになるであろう。宗教を持っていないため、すぐにキリスト教徒にな
るであろう。言葉を覚えさせるために6人をスペインに連れ帰るつもりだ」
衣服も武器も、鉄も宗教もなく、さらには言葉さえ理解できなかった原住民は
、召使いや捕虜にするにはうってつけだった。10月12日のコロンブス・デー、そ
れは米国の奴隷制開始の記念日なのである。
・コロンは西インド諸島を征服するやいなや奴隷制を開始した。数年のうちに、
富を絞り出す手段として奴隷制が貢ぎ物制度に取って代わり、10年も経たないう
ちにコロンはこれを「エンコミエンダ」という正式な制度にした。
このエンコミエンダは1502年に正式な制度となり、1503年には国王に承認され、そ
の後のメキシコ、ペルー、フロリダの侵略でも、征服者によって継承された。
・1502年に西インド諸島に渡ったカトリック修道士、ラス・カサスは、スペイン
人の様子を次のように書き記している。「スペイン人は誰が原住民を真っ二つに
切り裂くか、誰がその手首を一度に切り落とすことができるかで賭けをしていた
。また母親に抱かれる乳飲み子を蹴飛ばし、頭を岩に叩き付けた。赤ん坊であろ
うがその母親であろうが、目の前にいる者は1人残らず剣で串刺しにした。正式
な懲罰の場合は絞首台で首つりにしたり、キリストと12人の弟子にちなんで、13
人ずつ、火あぶりにする場合もあった」。ある時、ラス・カサスがスペイン軍に
同行すると、村の広場に集まる原住民に出くわした。朝早く剣を研いできた兵隊
達はそれを試したくてうずうずしていた時であった。まさにそのチャンスが巡っ
てきたのである。
「悪魔が衣服を纏っているようなスペイン人の1人が突然剣を抜くと、残りの
100人がそれに続き、そこに居合わせた老若男女の腹を引き裂き、一人残らず切
り殺した。一瞬の出来事であった。スペイン人がその後、近くの大きな家に入り
、同じように目に入る原住民をすべて切り殺すと、何十頭もの牛でも殺したかの
ように血が滴り落ちていた。そこに残った死体や死にかけている者の光景を見る
のは、あまりに恐ろしいことであった」。
ラス・カサスは死ぬ前に西インド諸島における略奪と殺人を回顧し、「それま
でに見たことも聞いたこともない残忍さ」とし、遺言の中に次のように容赦のな
い予言を記した。
「このような不信心で嘆かわしい、不名誉な行動を残忍にもしでかしたからに
は、神はスペインに対し怒りを示し天罰を与えるであろう。それはスペインの血
で染まった金持ち達が、盗みや略奪、原住民の殺戮や絶滅の結果手にしたものに
対する怒りである」。
・ラス・カサスの生存中にそのような天罰が下ったかどうかは定かではない。彼
が死んだ1566年、スペインでは血で染まった金持ちの手に年間約800万ドルの利
益が生まれていた。しかし、予言は正しかった。それはスペインがその後何世紀
にもわたり、その悲惨な征服に対し代償を支払うことになり、不名誉な遺産を残
したからである。
・「人間の最悪の非道や殺戮が行われ、村の住民の数が激減した。インディアン
は、何もしていないのに、王国や土地、自由、生活、妻や家まですべてを略奪さ
れた。また、スペイン人による残酷かつ非人間的な仕打ちで毎日仲間の人数が減
るのを目にしながら、馬に引きずられたり、剣で切り刻まれたり、犬に食いちぎ
られたりと、あらゆる拷問の中で生きながらえている者もいれば、その苦しみに
終止符を打つために、自ら敵の餌食になったり、山へ逃げる者もいた」
・近代の学者の推定では、コロンが上陸した当時、西インド諸島の人口は800万
人であったが、1514年には28,000人しか残っていなかった。わずか20年間で800
万人から28,000人まで減ったということは、1世代の間に99%以上の大虐殺が起こ
ったことになる。
植民地化、帝国主義、奴隷制、拷問、強姦、殺人、略奪、大量虐殺。米国は世
界に対して人権保護を説き、他国の人権侵害を非難しているが、その一方でコロ
ンブス・デーを祝い、学校では彼の偉業を称えている。1988年の調査によれば、
米国37州(ワシントンDCのコロンビア特別区を除く)で65の地理的名称にコロン
ブス、コロンビア、その他コロンブスにちなんだ名前が付けられていた。その内
訳は市の名前が50、郡が9、郡区が5、空軍基地が1である。さらにそれ以外に、
川、岬、山、滝、湖、氷河、山頂、高原、通り、高速道路、橋、公園、広場、建
物、放送ネットワーク、オーケストラ、ジャズバンド、百科事典、映画会社、大
学、鉄道、銀行、博物館、雑誌、スペースシャトルなど、無数のものにコロンブ
スの名前が使われている。コロンブスよりも多く地理的な名前に使われているの
は、世界ではビクトリア王女、米国内ではワシントンだけである。
このことは我々に一体何を言わんとしているのだろうか。