設計・製造の自動化への挑戦

3・5 設計・製造の自動化の追求
1)時代背景
話は少し固くなるが昭和40年代前後の時代背景を振り返ってみたい。
日本の運輸機械業界は戦後のドッジライン等により壊滅的打撃を受けた。特に、造船、航 空機は戦前世界に冠たる技術を保有していただけにその影響は大きかった。その後、造船 業界は自主再建を旗印に著しい発展を遂げていたが、それに反して航空機業界の回復、発 展は遅々として進まなかった。その理由は、自主的国産化が行われてこなかったこと、又 、米国航空機各社とのライセンス契約による米国製造方式の旧態化にあると言われている 。とは言え、種々の環境変化に伴って、この業界も活況を呈しつつあった。 自動車業界はその発展経緯において上記二業界とは異質の側面があったが、普及期を迎え 活況を呈していた。

2)コンピュ−タの利用形態
昭和30〜40年代におけるコンピュ−タの利用においては、科学技術計算、エンジニ アリング分野がその先端性、革新性において主流を占めていたと言える。
設計・製造の自動化、合理化を主体とするシステムの開発がコンピュ−タの実用化黎明期 とあいまって盛んに行われ、各分野毎の企業が独自のシステムにその優位性を競い、凌ぎ を削っていた。特に、造船、自動車業界は熱心であり、日本のCAD/CAM の歴史はこれらの 業界がリ−ダシップを取り、強度や性能などの技術計算や、モデルや金型の自動切削のた めのN/C の分野でコンピュ−タを利用することから始まった。又、グラフィックディスプ レイを利用した実験システムも開発されており、これがCAD/CAM(Computer Aided Design/ Computer Aided Manufactuaring)の発展の始まりである。昭和40年代後半にはいるとグラ フィックディスプレイの実用化が始まり、会話型グラフィックシステムが注目されてきて いた。先進企業はCAD/CAM 、ADE(Automated Design Enginearing) 、CAE(Computer Aided Enginearing) といったシステムの開発に積極的に投資を行っていた。

2・1) 造船工業
造船工業は、受注−設計−製造のサイクルで生産を行う受注工業であり、航空機、自動 車のように、見込み−量産を行う量産工業とは生産形態は異質であるが、組み合わせ技術 による工業という面において本質的な類似性が認められる。
当時の船舶開発の概略工程は以下のようになっていた。

1) 基本設計 船型計画( 船殻線図、配置図、断面図等) 、性能計画、船価見積、等
2) 詳細設計 船体構造設計、船体完成線図等
3) 生産設計 部品設計( 船殻工作図、管系取付図、一品図、N/C 処理等) 、
外板展開( 線図フェアリング、外板展開計算) ─> 資材・工程管理
4) 製造 板取り(NESTING) 、N/C 加工、組立、等

大手造船各社は生産活動面、具体的には工作の自動化、特に製造工程でのモジュ−ルの組み合わせによる量産効果を追求していた。その例として、石播の真藤船、三菱重工の海 上モジュ−ル結合方式等が有名であった。製造工程の自動化、合理化が進むにつれ、設計 工程における負荷が益々増大しそのため設計の自動化が重視される傾向になりつつあった 。すなわち設計工費が全体の約2%程度のウエイトしかないにもかかわらず、工数におい ては製造工程より長いという状況の打破であり、省力化もさることながら工期短縮が目的 であった。このため、航空機、自動車などの量産型のテクニックの導入が検討され、これ を実現すべく標準船採用を強く指向していた。
( 昭和49年以降この業界は不況に陥り、急速に活力を失っていく。)

2・1・1)日本造船工業界におけるコンピュ−タ利用推移( 昭和30〜40年代)
1・実験期 1957〜1962 単発的技術計算
2・個別設計 1961〜1967
3・DB統合化 1964〜1970 DB統一( 過去の設計情報の整理、標準化- 船種単位)
システム による形状・性能設計及び規準に基づく構造設計
4・生産設計 1967〜1973 DBベ−ス造船生産設計向言語PROCESSOR の開発
5・性能設計 1970〜 MMI(HCI)化、PROGRAM.DATA MANAGEMENT
6・IR的設計 1973〜 蓄積された情報からの検索、組み合わせ(MODULE)
による設計、製造により量産効果

大手造船各社は生産設計、特に工作の自動化を目的とする各社独自のシステムを構築し ていた。しかし設計工程の自動化、合理化の必要性からIR的設計、すなわち設計から製造 に到るト−タルシステムへと指向していく。当時、これに類似するシステムは米国航空機 業界では開発されていた。しかし、日本においては基盤となるコンピュ−タの技術がそれ を現実化するレベルにはなっていなかった。

2・2)航空機工業
航空機は組み合わせ技術による工業という面において造船と本質的な類似性を持ってい る。米国においては航空機産業がエンジニアリング部門でリ−ダ・シップを取っていたが 日本航空機産業は戦後さしたる発展を遂げておらず、コンピュ−タ利用においても遅れて いた。しかし、下記の状況変化によりシステムの方式改善の要請が強まりつつあった。 1) 全面的国産設計プロジェクトの出現の可能性、生産量増加に伴う設計・製造システ ムの合理化の必要性
2) 直接工、間接工共通の求人難という時代の背景の中での設計・製造の省力化
3) ライセンス生産の場合、米国航空機会社のMD/NC(MASTER DIMENSION/NUMERICAL
CONTROL)化に伴う受入体制の整備要求

2・2・1)コンピュ−タ利用状況
日本の航空機産業のコンピュ−タ利用は生産計画、生産技術などの面ではAPT等の数 値制御システムが、設計部門では性能計算が中心であった。当時米国では航空機各社がそ れぞれ優れた設計〜製造ト−タルシステムを開発しており、なかでもMCDONNELL DOUGLAS 社のCADD、ND/NC(NUMERICAL DESIGN/NUMERICAL CONTROL) 、ロッキ−ド社のC ADAMが著名であり、日本においても米国のこれら先進技術の導入が検討されつつあっ た。とりわけ航空機の形状設計〜加工での図形処理は日本の業界のもっとも興味のあると ころであった。このような環境下で川重航空機事業部のMD/NC システムは開発されたが、 当時、川重の中村係長の課長研修テ−マでもあり、随分とお手伝いした。

2・3)自動車工業
量産型の自動車工業の設計・製造における先ず第一の問題は、個別車両計画後新製品が 出る迄約2年半〜3年近くかかり、新車が出たときには技術レベルが陳腐化している恐れ があるため、企画から出荷までをいかに短縮するかにあった。このため、先行開発サイク ルと試作サイクルとが、本設計に入る前に取り入れられていた。本設計において船舶、航 空機とは外形線図の上で、大きな違いがある。それは、自動車が造形品、すなわち美的感 覚が優先し外形線の数式化が非常に難しいことであった。

2・3・1)コンピュ−タの利用状況
設計・製造の工期の短縮化に伴う情報処理上の問題の一つにデ−タベ−スがあった。本設 計前においては、デ−タベ−スは検索が主体であり、先行開発サイクルでは自社製品ばか りでなく他社、国外製品の車両諸元、性能の検索であり、試作サイクルにおいては技術文 書の形で蓄積された技術情報の検索・参照であった。又、本設計以降の工程においては、 各工程での関連性を持った階層構造的情報、所謂エンジニアリングデ−タベ−スの概念が 必要であったが、業界各社のシステムにおいては確立されてはいなかった。

本設計前のサイクルでの技術計算では、振動解析、安定性解析、加速性能解析、応力解析 等があり、これに関しては各社独自に開発していたが、そのための高速なコンピュ−タが 要求されていた。昭和43年に関東自工と車体の構造計算の共同開発を行っている。当時、 筆者( 笹原) と金谷(2シス統) が担当し、新しい構造解析理論(FORCE METHOD:内力法) の 開発に取り組んだが、理論がなかなか理解出来なかったこと、F230-30(メモリ32KC) で約 200 元の二次元配列を高速に解く方式にてこずったりなど悪戦苦闘の連続であった。

もう一つの問題は外形線の創成であった。ボデ−現図の作成に自由曲面の創成機能持ったアプリケ−ションとディバイスが必要であり、そのためグラフィックシステムの利用が検 討されていた。

昭和42年に、富士通( 橋本氏、石坂氏、斉藤) とトヨタ自工との共同研究で、米国イディ オム社から導入したGDを用いて開発された車体のスタイルデザインシステムは日本での 、GDによるMMI システムのはしりと言える。この共同研究の成果を体系化し、SUBROUTI NE LIBRARY としたのがGRACE である。同時期に、トヨタ自工第二技術部(三木主査、戸 田、田辺氏)よりワイパ−系、運転操作制御系のKinematic 解析システムを開発するにあ たり川重のKFAPF の仕組みを紹介して欲しい旨依頼があり、その後開発されたのがPOL(Pr oblem Oriented Language)型システムMALGIDである。米国においては日本より5年以上も 先行しており、1963年に開発されたGM社のDAC−1が著名であった。米国においてはこ のようなグラフィックシステムはタ−ンキ−システムが主体で多くのベンダ−が出現して いたがこれらのシステムが日本に導入されるのは昭和50年代に入ってからである。 更に 問題であったのは、ボデ−現図を基にプレス型のN/C 加工情報の作成の自動化が検討され ていたが従来の機能は精度上問題があり、APT の利用が図られつつあった。

3・5・1 造船設計・製造システム
前述したように、昭和40年代当初の日本の造船業界の設計自動化に対するアプロ−チは 生産設計を中心とした部材切断加工用デ−タの作成、自動化が主体となっており殆どのメ −カが自社独自のシステム開発を指向していた。それらのシステムは工作図面又は工作図 ファイルを基に問題向言語- POL 、設計向言語(DOL:Design Oriented Language)により加 工情報を作成するものであった。昭和40年代後半になると問題向言語からGDを仕様したMa n Machine Interactive なアプロ−チに変わっていっており、生産設計ファイルの統合化 を進めていった。三保造船との共同開発システムVESSELは当時としては画期的システムと して国内外から注目をあびたし、MAC-AUTO社のMERMAID は当時のコンピュ−タテクノロジ −を駆使したMMI ト−タルシステムとして注目され富士通としてもその評価に携わった。
しかし、基本設計と生産設計・製造の統合を図るト−タルシステム化に、特に、そのベ− スとなるエンジニアリング DB の確立にはさらに時間を要する(EDBの最初の論文は1979年 頃, 実用化が始まったのが1983〜1985年頃) 。

-----(閑話休題)-----------------------------------------------------------------
船の種類は、客船、貨物船、漁船、種々軍用船等がある。川重は漁船は造ってなかった と思うが他の船種は手掛けていたように思う。三保造船は、300  以下の漁船( 300   以下だと税金が安くなる) や中小の貨物船を作っていた。
船の形状に関しては当時もその性能を向上させるため種々の試みがなされていた。例えば 、造波抵抗を少なくするため船首の部分にキュ- ブ(球状船首)を付けて波の位相を90度 ずらせるとか、水の粘性抵抗を計算( この計算は当時のF230/50 で約24H ぐらいCPU 時間 がかかる)して、それを少なくする船型の改良を続けていたが、それでも行き着くところ は、過去何千年として受け継がれてきた形状がベスト( 川重の川口氏談) とのことであっ た。その形状は曲面、曲線での数式定義は一意には出来ない。部分的に近似曲線、面の組 み合わせで表現するしかない。1/10の船型モデルの計測値をマイラ- 紙上に各点をピンで たて( 女工さんの仕事)、その点間を種々の太さのバッテン棒( ベ−クライトのような材 質)を曲げながら一番ヒットするものを選択し、補間してフレ−ムライン( 航空機ではロ フトラインと呼ぶ) を決定していた(フェアリング: これは熟練工の仕事だった)。
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1 )川崎重工造船事業部共同開発システム−KFAPF−(昭和41〜42年)
−KFAPF(Kawasaki Figure Analyzing Processor With Fujitsu)−
1・1) KFAPFの狙いと仕組み
KFAPFは基本設計から生産設計の工程をカバ−するシステムとして開発された。 当時、各社が生産設計を中心としたシステムが主流の中では意欲的なシステムといえた。 機能として、

1)船型計画、性能設計機能・・・各種図形要素の定義、図形演算、面積・容積計算
(基本設計) 重心・図心計算

2)詳細・生産設計・・・・・・・作画機能、NCテ−プ作成
があり、基本設計機能はV1 として、昭和41年9 〜12月に、詳細・生産設計機能はV2 と して、昭和42年1 〜3 月にDOL 方式のシステムとして開発した。
言語PROCESSOR の処理方式としては、1)PRE- COMPILER TYPE,2) COMPILER TYPE,

3)PROCESSOR TYPE(INTERPRETIVE APPROACH)があるが、作成の容易性からALGOL Cmpiler のPRE-PROCESSOR 方式を採用した。これによりKFAPF 言語とALGOL 言語が混在してパ−ト プログラムが記述でき木目細かい処理が可能となるからである。しかし、この方式だとあ る程度コンピュ−タを理解してる人でないと扱えないのが欠点であった。 しかし、この方式は、その簡便さ故に、以降のPOL,DOL の原形となった。


〔KFAPFの処理フロ−〕
┌────────┐
│パ−トプログラム┝━━━━━┓
│KFAPF,ALGOL 言語│ ┌───┸────┐
└────────┘ │トランスレ−タ ┝━━━━┓
│ (Pre-Compiler) │┌───┸───┐
└────────┘│ALGOL Compiler┝━━━━┓
└───────┘┌───┸────┐
│ LIED │
│(Lincage Editor)│
┌──┐ └─┰──┬───┘
┏━━━━━━━┥実行┝━━━┛ │
┌─────┐ ┌───┸────┐ └──┘ ┌──┴───┐
│ DRAFTING ┝━━━━┥ POST PROCESSOR │ │図形LIBRARY │
└─────┘ └────────┘ └──────┘

1・2) 二人・半年がAP開発の原則?
昭和41年9 月に当時のシステム部第二システム課山田( 現FQS)班に、新人同期の杉本( 現TSR)と共に配属されて最初の仕事がKFAPFの開発であった。
当時は、AP開発は二人半年が暗黙の原則であったように思う。現在、開発システムが巨 大化、長期化しているが、当時の考え方は、如何に早く、タイムリ−に製品を世に問うか という面においてそれなりに見識があったと思う。しかしながら、KFAPF システムの仕様 内容、現実のコンピュ−タスキルの保有状況を等を見ると不安にならざるを得なかった。

1・3) にわか仕立てのSE
新人教育ではF231のアセンブラ−が主体であったが、開発は当時最大機種のF23 0−50( 現在ではPC並み) で、言語はALGOL で行うことになっていた。当時、マニュア ルは不備で、市販の"ALGOL60" を買い勉強した。ALGOL の文法はBACKUS NOTATION で示さ れ、それさえ覚えれば細かい仕様は読まなくても大抵のプログラミングは出来、非常に便 利な言語である。1 カ月ほどALGOL,JCL,MONITOR 2,OP を勉強し、開発に取り掛かった。

1・4) 数学と数値計算の違い
不勉強で数学と数値計算の違いを厳密に理解してなかったため、誤差の累積、近似計算 での収斂、近似方式でのトレランスの設定等精度問題で随分とてこずった。前述したよう に、一本のフレ−ムラインは一つの数式では一意に定義出来ないため、部分毎に一、二、 三次曲線又は円弧で近似し、その接続点で滑らかにしなければならない。これをフェアリ ング(点列を滑らかに定義)、フィッティング(点列の各点を滑らかに結ぶ)と呼ぶが、 後工程での作画、N/C 加工に精度は大きく影響するため随分と気を使った。V2の開発の折 、曲線近似の結果が出るたびに、川重の川口さんに製作現場に連れていかれ、マイラ−紙 上にピンを立てて、熟練工のフェアリング結果と付き合わされ、よくNGをだされた。" も う一度、アルゴリズムと精度を見直しなさい!" と、川口さんによく言われた。

1・5) 川崎重工造船事業部電子計算機班々長 川口 博さんとの出会い
昭和41年の12月、V1の最終テストを行うため、初めて神戸に赴いた。最初に、A1の青焼 き図面を示されたが、そこには設計から製造にいたる各工程の処理の流れとKFAPF の位置 づけが細かく記されており、新人を相手に懇切丁寧にそれを基に説明された。このことは システム全体を理解する上で非常に役にたった。、以降、人に仕事を依頼するときにはま ず、システムの全体像・意義と役割を教えるようにしている。川口さんは非常にシャ−プ で合理的な人で、富士通の関係者は大分怖がっていたようだが、私にとっては、仕事の師 であり、半人前にも係わらず一人前のSEとして扱ってくれた尊敬すべき人と思っている。 リクリエ−ションや飲みにも連れていっていただき楽しく仕事ができた。良い仕事をする には、良い人間関係を作ることの意義をあらためて肝に銘じている。

1・6) V2の開発−勇将の元で−
V2の目的は数値制御機能の開発であった。そのため、昭和42年1 月より2 ケ月程、当時の 計算制御部( 稲葉部長、現ファナック社長) の元に一人預けられた。そこで、FANUC の数 値制御装置を制御するPOST PROCESSORをベ−スに、川重仕様に改造をおこなった。そのた めには、N/C 装置のハ−ドの仕組みとコマンドを理解しなければならなかったため、野沢 、小宮( いづれも現ファナック役員) 両氏が指導役としてついていただいた。当時の稲葉 部長は社内でも鳴り響くこわもての仕事師であり、野沢、小宮両氏も紳士ではあったが、 " 勇将の元に弱卒無し" のとおりであり、稲葉一家の統率・団結の強さは非常に印象に残 っている。ここで学んだことは、モジュ−ル化である。ハ−ドもソフトも機能を徹底して モジュ−ルに分解し、その組み合わせによって種々の目的のタイプのシステムを作り、シ リ−ズ化していることであった。したがって、川重仕様のPOST PROCESSORを作るには種々 のシリ−ズの各機能の中から必要なものを選び組み合わせればよかった。あとは、整合性 のみである。このことも後のシステムの開発に参考になっている。

最終テストのため昭和42年2 月末頃神戸に趣いた。計算機時間は夜7:00以降でないと空 かないため、その後3 月末迄、From pm 7:00 To am 7:00 の生活が続くことになった。 V1との結合と精度問題でてこづり、とうとう期限間近になり、川口さんに" 三日間計算 時間を全部ください。納期を守らねば会社に帰れません!”と直談判したところ、" 日常 業務を止める訳にはいかないが、多少融通してみよう" と気軽に言ってくださり、また柴 山さん( 富士通出身の川重の女性SE) にも手伝っていただき、それでやっと納期通りに完 成できた。今思えば、計算機の運用が業務上どんなに重要な位置づけにあるかも知らず三 日も止めろとはびっくりしたことであろうし、恥ずかしい次第である。

1・7) エピソ−ド
・精度問題には随分苦労したつもりであったが、後に柴山さんにお会いした折り”パ− トプログラムのステップ数が多くなると誤差が累積してだめなので、全ライブラリ− を見直した。”とのお話を伺い恐縮したのを覚えている。
・V2の完成に伴い、川口さんが当時のシステム部長を訪ねてこられ、私を評して、 ”五月の空の吹き流し”と言ったのを聞き複雑な気持ちであった。後に川口さんから ”腹になにも無い、爽やかである”と言う意味だと聞かされたが、その折は、”頭が 空っぽ”と言われたような気がしていた。

・ALGOL はよく障害を起こしていたが、当時の20才そこそこの開発担当者( 現第一PP事 業部 斉藤部長) はすぐ飛んで来て瞬く間に直してしまう。その手際の良さ、天才的 な技術力は顧客( 川重、トヨタ) からも絶賛され、" 富士通には若くて優秀な人間が 多い、どういった教育をしているのか教えて欲しい" と言われた。" 自由放任主義で すから伸びるんです”と答えたのを覚えている。振り返ってみると、当時の富士通は 若い人に思い切って仕事をまかせていた。顧客からよく、" 富士通は大胆な会社だ" と言われたものである。

2)三保造船共同開発システム−VESSEL−( 昭和46〜47年)
これまでのKFAPF やAPT4の開発経験、それらの現業務への適用実績を活かして新しい概 念に基づいた造船用図形処理システムの開発が始まったのは昭和46年の頃であった。

当時日本の造船業界は、高度成長時代の波に乗って、造船各社は積極的な合理化投資を行 っていた。事務処理のコンピュ−タ化に加えて、開発の効率化・期間短縮を達成するため に、船殻設計から部材NC加工に至る工程の自動化を図ることが経営戦略上重要な課題であ った。もちろん、三井造船・日立造船・三菱重工など大手造船各社は昭和40年代前半から 、設計・製造の自動化システム開発に取り組んできており、自社開発ソフトを中心とした 適用を開始していた。しかし、中小造船会社ではシステム開発経験やノウハウがなく、資 金力もないため、その対応が遅れていた。そうした中で三保造船株殿システム商談を進め るなかで浮上してきたのが、中小造船向け図形処理一貫システム開発計画であった。KFAP F の著作権、販権を巡って川重とは多少ぎくしゃくした状況にあり、是非とも我々のノウ ハウをベ−スにしたシステムを作って、より多くのユ−ザに利用してもらいたかった。当 時の課長に"10 社以上売れるなら作っても良い" と言われ" 必ず売ります!"と勇んで答え た。しかし、我々にはKFAPF との共同開発、NC言語や図形処理など汎用アプリケ- ション 開発の経験はあったが、船殻設計からNC加工に至る一貫処理システムの開発にはかなりの 難題があり、これを越えられるかどうか不安ではあったが、覚悟を決めて取り組んだ。


1)POL(Problem Oriented Language)の体系化
中小の造船会社に巾広く利用してもらうためには、分かり易い言語仕様でなければなら ない。ベ−スはAPT 言語とし、もっと図形を高度にかつ容易に扱えるように、集合論の考 え方を取り入れたシンタックス体系を作った。この機能により複雑な複合図形の定義やそ の複合図形同士の剰余加減等種々の図形演算が可能となり、さらにNCカッティングの切削 順序もいちいち定義しないですむためパ−トプログラミングは飛躍的に簡便になる。多少 自慢のできるものが出来たと思っている。しかし、この内部処理は随分と大変だったと思 うが、当時の新鋭平井君( 現企画部担当部長) を始めとする若手連( 元山、清沢君等) が 頑張ってくれた。以降の作業はこの若手連が中心となって進めていった。

2)漁船は類似設計──>船殻線図のDB化
漁船は基本的に類似設計であり、注文がくると、過去設計した複数の図面(図面保管庫 に山のように積んである)を取り出し、類似部分を組み合わせ、縮尺を調整して再設計す る。これをなんとかDB化し、IR的な設計にし、効率化、合理化が図れないかが大きな命題 であった。

『VESSEL開発は、今から20年も昔のことで、その技術的内容については記憶に定かでない 。当時の笹原班長がたまたま保管されていた、当時の造船国際会議(1974 年ICCAS)に投稿 したVESSELの英語の論文が、手元にある唯一の資料である。この論文を今読み返してみる と、図形処理やNC処理の部分はAPT4開発ノウハウを流用しつつも、造船設計固有の処理と NC加工に繋げるための設計データベースの開発にかなり苦労したことが思い出される。
基本設計で作成される船殻線図 (船体の三次元形状を決める基本線図) をはじめとして 、船体側壁の形状を表すフレームライン、船倉の各層の断面形状であるデッキライン、船 倉を水平方向に分割する隔壁、この隔壁を通す配管・配線・補強材のための穴や組立時の 溶接箇所の形状 (スロット) などのデータを船殻データベースとして一括管理することが 大きな課題の一つであった。当時、今日のような汎用DBMSはまだ開発途中にあったため、 三次元形状データベースを一から開発せざるを得なかった。ISAMとBDAMというアクセスメ ソッドを使って、類似設計 (既存設計データの流用) を可能にし、かつ性能計算 (面積・ 重心・容積計算など) を行う設計プログラム(FORTRAN) とのインターフェースを可能とす るエンジニアリングデータベース開発への最初の挑戦でもあった。

船殻の詳細設計においては、側壁を構成する垂直方向のフレームと水平方向のロンジと 呼ぶ鋼材が交差する点( シーム) を決定し、この部分で船倉の隔壁を含む三つの部材を溶 接固定するためのスロットとよぶ間隙を決めていく。その三次元の形状決定と相互関係を 処理するのに悪戦苦闘した思いがある。スロットと呼ぶ部分は、各フレーム毎に複数個存 在するが、その形状はそこを通る縦横の鋼材の形(T型とか L型) や寸法、強度によって変 わる。これを船殻データベースの情報に基づいて自動的に決定する、という可変図形ある いはパラメトリック図形の概念を初めて採用した。
NC処理においても、APT4開発で経験した旋盤、フライス盤、マシニングセンタといった NC工作機械用の切削工具軌跡データ作成とは異なった工夫が必要であった。ひとつには、 加工部材は二次元であるが、一枚の鋼材からいかに多くの部材を切り取るかというネステ ィング手法が要求されたことである。また当時ノルウェー(AUTOKON) 製NCガス切断機が導 入され、これを利用するための特殊なポスト処理が必要であった。』(平井 記)

3)来島どっく商談−昨日の友は今日の敵−
昭和46年頃、高松営業所から来島どっくの商談が舞い込んだ。IBM との一騎打ちとなっ たが、商談途中から川重が商談の技術コンサルタントとして参画してきた。当時、川重は 当社からIBM に乗り換えており、過去の繋がりがあるとはいえ必ずしも良い関係で進めら れるかは分からなかった。案の定見知らぬ川重の技術者は当社の提案(KFAPFのノウハウを ベ−スにVESSELを提案) に否定的であった。その結果、川重のシステムとの連携、整合性 を理由にIBM に敗戦した。あの坪内社長の娘婿がキ−マンで、高松営業所の加藤営業課長 とよく直談判に行き、粘ったが逆転には到らなかった。

4)中小造船所への拡販キャラバン
来島どっくの商談の帰りには、課長との約束を果たすべく、瀬戸内海沿岸の中小の造船 会社に飛び込みのセ−ルスをやった。波止浜造船、今治造船等々の事務所に行き、講演会 の名目で担当者を集めてもらいPRしたが、当初は興味は示すもののなかなか商談にまで は結びつかなかった。北は函館ドック、関東では金指造船等々行脚した。このセ−ルス行 脚は若手にも受け継がれていった。

6)日米コンピュ−タ会議への出展−NESTING(二次元配置問題)−
昭和47年、日米コンピュ−タ会議が開催されることになり、当時の部長からなにか出品 せよとの宿題をうけた。当時、東レとアパレルのマ−キングシステムを共同研究中であり 、そのアルゴリズムの開発に、PERT,LP開発グル−プが知恵を絞っており、途中か ら応援に刈りだされた。DP,TLP,グラフ理論等いろいろためしてみるが条件によっ てばらつきが大きくなかなか実用化の糸口がつかめないでいた。そんな状況下でNEST INGシステムの開発が短期決戦でスタ−トした。当時の若手の浦野、松尾両君が,PE RTとBranching And Bound 法を組み合わせたアルゴリズムを考え出し、理論の補完にヒ ュ−リスティック アプロ−チを取り入れ、GDによるMMIシステムを開発、出品し、 好評を博した。翌年、ICCAS学会( 日本造船学会、IFIP,IFAC 共催) が日本で開催さ れ、川重の川口さんから、富士通も論文を応募するよう要請を受け、”Contribution To NESTING System" と題して発表した。かなりの反響があり、米国のNAVY、英国のロンドン 大学等から質問が次々とだされ、しかも早口の英語でまくしたてられ往生した。このシス テムはVESSELに組み込み、造船の部材の板取り、NCシステムに連動する仕組みとした。

7)ブルガリア バルナ造船所商談
ICCAS学会が終わるやいなや、ブルガリアのバルナ造船所の商談に出発した。出発の10日 前に部長から、ブルガリアに飛べと言われ、学会の合間を縫って、資料作り、渡航手続き にと、徹夜の連続であった。提案システムはVESSEL+NESTIG で、パルナ造船から高い評価 を受け、帰国後ほぼ受注間違いなしとして、関係部署を招集し、プロジェクト計画を策定 してる最中、海外営業より敗戦の知らせを受け愕然とした。理由は、ソ連の横槍で、当時 ソ連のコンピュ−タ開発計画はIBM 互換路線が方針であり、富士通のコンピュ−タはこの 路線に反するとのことであった。しかし、当時はF230-30 が数十台ブルガリアに導入され ており、釈然とはしなかった。

8)エピソ−ド
・三保造船所社員との親睦
共同開発をスム−スに行うため、親睦会が頻繁に行われ顧客との一体感が生まれた。 今も共同開発、研究を多数しているが、昔にくらべビジネスライクになっているよう な気がする。我々の怠慢かも知れない。
・ネ−ミングはインタ−ナショナルだったか?−ファコムのベッセル− 外国人にとって、どちらも思わず" にやり" とする響きを持っているようである。


3・5・2 数値制御システム(昭和44〜45年)
1)APT4
昭和43年12月、課長に呼ばれ、APTの開発をSE二名(筆者、本多(現東支社))、 計算制御部(野沢氏)、機械振興協会(湖東氏)とタスクフォ−スでやれとの指示を受け た。しかも、このタスクフォ−スの役目はインプリメントのみで、実用化テストはSE部隊 でやるとの条件であった。計算制御部とは二度目の付き合いである。スタ−トは昭和44年 1 月から半年で、正月休みにこれを読んでおけと英文のマニュアル(厚さ7〜8cm位のを 2冊)を渡された。悲劇的な休みであったし、半分も読めずにプロジェクトのスタ−トを 迎えた。野沢氏はIITRI(イリノイ工科大学研究所) に本部を置きマルチクライアントで運 営されているAPT 開発機構(CAM−I)に出向して帰国したばかりであり内容を熟知し ておられた。又、湖東氏も仕事柄当然同様のレベルにあったが、我々二人は半分素人であ る。作業場所は機械振興会館で行うことになった。そのためか、私は同じビルに同居して いる情報処理開発協会のセンタ−の担当SEの役割も仰せつかった。マシンは当時の新鋭超 大型機F230-60 、OSはMONITOR 5でそのころはまだ未完成品で作業用モニタと呼んでいた 代物である。

2)F230−60へのインプリメント
なんとか納期通りにインプリメントはしたが、不完全で数々のバグに悩まされた。実用 化の為の改良には当時の二年生平井君を投入し、品質改良に取り組んだ。

F60 へのインプリメントは、CDC(後にIBM360) で開発されたソースコードをもとにして いた。CDC/IBM と、浮動小数点データの仮数部と指数部の位置やビット数が異なっている がために生じる計算精度の違いや、バウンダリやEQUIVALENCE の位置が合わずデタラメな 結果がでたりして連日連夜悪戦苦闘したものである。もっとも最初の頃はOS自体が不完全 で、入出力テーブルのコード系(NC ではEIA という特殊なコード系を使っていた) が不十 分だったり、リンケージ・エディター(LIED と読んだ) が APTのような大規模プログラム (1MWのオブジェクトを 256KW〜512KW の実メモリで動かすために複雑なオーバーレイ構造 を取っていた) を処理できなかったりのトラブルが多く、OSのデバッグも含めて開発して いるようなものだった。今日のような便利なデバッグ・ツールのない時代で、障害が発生 すると、厚さ20〜30センチにもなるメモリ・ダンプ(F60は8進数表示)を取ってプログラ ムの動きを追ってデバッグするほかなかった。毎日紙の山を前にして8進数表示の数字の 羅列を解読しながらの作業が続いた。

後にその効率の悪さをなんとか改善しようとして、 MONSUP(Monitor Support Program) と呼ぶデバッグ・ツールを平井君が開発した。プログ ラム実行中に、コンソールあるいはエンジニア・パネルから強制的に割り込みをかけて、 メモリの内容をチェックしたり、その一部を変えたりして、リアルタイムでデバッグする ことにより、障害原因の発見と修正を行ったものである。今から考えると随分と原始的な やり方をしていたものであるが、そうした苦労の中からハード/OS の仕組みが分かり、効 率的なソフト設計の創意工夫が生まれた。

3)実用化への取組み−悪戦苦闘の連続−
3−1)トヨタ自工商談−MICKY-MOUSE との格闘−
インプリメントの最中に豊田自工商談が発生し、目玉はAPT4であった。APT4には、テス ト用プログラムが数十本ついており、その一つにMICKY-MOUSE の似顔絵を書くプログラム がある。このプログラムをIBM のマシンではAPT3( システムの構造上APT3のほうがAPT4よ り性能がでる) ではあるが、確か12秒で実行するのに、F230-60のAPT4では、24秒かかる と推定され、これが商談上大きなネックとなった。野沢、湖東氏を含めあらゆる改良の可 能性を検討したが、20秒を切れるかどうか程度しか見込みがたたず、この商談の陣頭指揮 をとっていた部長にその旨報告した。しかし、当時の豊田自工担当SAはなんとしてもこの 商談を取りたい一心で豊田に18秒に改良すると約束しまい、それを聞いた部長の怒りは凄 まじいものだった。インプリメント後ベンチマ−クをしたが、結果は推定通りであり、こ の商談は敗戦した。可能性の限界を見極めて対応する真摯な姿勢を学んだように思う。

3−2)蒲田SL開所式−TABCYLとの戦い−
昭和45年5 月、蒲田にシステム ラボラトリが完成し、その開所式が催されることとな り、当時の最新の技術を展示して顧客に富士通の技術力を誇示することとなった。その一 つとしてAPT が選ばれ、単なる作画ではなく顧客が驚くようなデモをやれとの指令により 、川崎工場と蒲田の計算機をオンライン接続した分散処理方式等いろいろなアイデアを検 討したが、技術的、時間的に無理であり断念し、当時の工作上かなり高度な図形である船 のスクリュウをTABCYLを用いて作画すると同時に、図形操作機能を組み込み、視点により 様々な角度、尺度の図形が取り扱えるようにした。三次元の曲面をTABCYLと呼ぶ機能を用 いて定義しょうとするのだが、不安定なル−チンで、村松、平井君と共に何連徹も続け、 やっと当日の朝完成したが、このデモはかなり受け、マスコミが写真をとったり、サンプ ルを持っていった。その後、スクリュ−のサンプルがある本の表紙を飾っているのをみつ けたときは苦労がむくわれたようで嬉しかった。

3−3)川重航空機事業部への適用−生みの苦しみ−
APTプログラムが動きだすとともに問題になってきたのが、解析精度であった。当時 、川崎重工(岐阜)航空機事業部では、BOEING-747の翼面の加工を受託しようとしていた が、この高度な曲面加工を行うためには、APT3では不可能でどうしてもAPT4の機 能が必要であった。3次元5軸制御の工作機械を使った加工である。表面仕上げ精度は、 千分の5ミリ以下でなければならなかった。競争会社である三菱重工・名古屋航空機では IBMのAPT−AC(APT3改良版)でやろうとしていた。川重(岐阜)F60商談 でのAPT4開発は、IBMとの競争でもあった。何とか商談をとったが、精度問題に加 え、実用パ−トプログラムには、内部テ−ブル(Name Table)が小さすぎ、オ−バフロ−を 起こすと他の領域を破壊するため、それを拡張する必要が出てきた。そのためには、テ− ブルのアドレス管理を行うHashing Algorithm を修正せねばならず、これにてこずった。

当時の川重岐阜の工作部の佐藤部長、田中課長、坪係長には随分とご迷惑をかけた。なか なか動かないのに業をにやし、東京におしかけ、何日もじっと我々の作業状況を見守って いたのには頭が下がる思いだった。彼らにとって、これからやらねばならね使命の大きさ に比べ、その中核となるAPT4の頼りなさに愕然たる思いだったろうと思う。なんとか実用 化に漕ぎ付けたときの喜びようは大変なものであり、以降我々の信用はぐんとあがった。 その後、川重はAPT4をベ−スにMD/NC の開発へと進んでいくことになる。

4)APT開発機構
APT4の心臓部分はARELEM(Arithmetic Element)と呼ぶ数値計算プログラムで 、数値解析としては偏微分方程式を変分法で解くアルゴリズムであった。TABCYL(Tabulat ed Cylinder)とかRuled Surface, Sculptured Surface といった高度な三次元曲面形状を 一定の誤差範囲内で切削するための工具通路を計算するためには、三次元形状をもった工 具と加工曲面との接触点の軌跡を近似計算するだけでなく、工具が他の接続曲面とぶつか らないように干渉チェックもしなければならず非常に複雑なアルゴリズムが要求された。 APT4で求められた工具通路データ(CLDATA) をNC工作機械に入力して実際の切削加工 を行う前に、プロッター装置に工具軌跡を描いて事前チェックをするのであるが、これが OKであっても実際に5軸制御工作機械で加工をすると、ある所で機械が原因不明の振動を して工具軌跡が振れる現象が起こる。これはARELEMの解析精度が悪く、工具軌跡の 不連続点があったり、冷却油注入のタイミングが悪かったり、あるいは工具のスピンドル 回転数や移動速度が不適切であったりするのが原因であった。

昭和46年にAPT長期計画(ALRP)が終わり、CAM−Iという非営利法人組織が できたが、その中の重要プロジェクトの一つとしてARELEMプロジェクトも発足した 。CAM−I日本支部( 当初JADE) において当社もこのプロジェクトに参画し、AREL EM委員会の主要メンバとしてアルゴリズムの改良・インプリメントに貢献した。
その後、自由曲面(Coon`s の式、その改良版である穂坂の式) の研究をハイブリッド計 算機で、昭和48年頃行った(CIMシス大屋) が、APT の経験が随分役に立った。

5)FAPT
当時の計算制御部は、FUNAC の拡販武器として、APT に代わる簡便な数値制御言語FAPT を開発していた。F270で動作していたFAPTの対象機種拡大のため、我々SE部隊がAPLYの一 貫としてインプリメントすることとなった。このFAPTはヒット商品になったように思う。 稲葉部長はソフトの価値に独特の考えを持っており、ソフトはハ−ドを売るための武器で あり、そのためには富士通の計算機にこだわらず他社の計算機でも動作させるべき、また 必要ならソ−スも公開するとの、今で言うフリ−ソフトの発想を持っておられた。

6)エピソ−ド
・APTIVとは何かもよく分からないままに、先輩の笹原さんに連れられて、機械振興 協会に設置されていたF60 MONITOR V を使い出したのは、昭和45年春頃であったと思 う。もちろん最初の頃は、MTをマウントしたり、ディスクパックを変えたり、空調が 効かず室内温度上昇に伴い出やすくなるメモリエラーを避けるために扇風機をかけた り、といった手伝いしかできなかった。その一方で、APT IV ENCYCLOPEDIA とDICTIO NARYと呼ぶ二冊の分厚い英語のマニアルを一生懸命読んだ。当初は、Interpretive a pproach とかExecutive complex,あるいはName tableのhashing algorithm など未知 の用語ばかりが出てきて理解するのに随分苦労した記憶がある。(平井記)


3・5・3 構造計算

1)骨組構造解析

航空機や自動車、橋梁、建物などの構造物の強度解析は、大量の計算量になるため、 計算尺や手回し計算機の時代には、この計算に、設計者は苦しめられ続けてきた。しか も、この解析も、実物の幅のある材料を、線材に置き換えた骨組解析で行われていた。 このような時代にあって、昭和42年に関東自動車工業殿より、富士通に、車体フレ ームの骨組構造解析プログラムを、共同開発する依頼があった。

最初に突き当たった問題は、解析手法の選択であった。従来、手計算では応力法で行 われており、関東自動車工業殿は、この応力法をコンピュータ向きの数式に展開し、こ れを富士通に掲示してこられた。

しかし調査を行ってみると、既に米国で開発されたプログラムSTRESS等は変位 法を採用し、米国の文献でもコンピュータ向きは、変位法と結論づけていた。そこで両 者を比較し、変位法の提案を行ったが、認めていただけなかった。この議論で共同開発 は苦しいスタートとなったが、以降のエンジニアリング分野で、米国の動向と、理論を 重視する大きな教訓となった。(担当:金谷 S42年入社)

2)マトリックス計算
次の山は、マトリックス計算であった。数式群はマトリックスで表現し、車体のフレ ームでは、約200元の連立一次方程式のマトリックスを解くことになる。FACOM 230−30のメモリにこれが入る訳はなく、磁気テープ装置に格納し、READ/W RITEを繰り返して、演算することになる。

最初は解が出るまで5時間を要した。そこでマトリックスのブロック化、零要素の圧 縮、ビットでのインデックス表現、I/Oの並行動作、データの流れと演算のパイプラ イン化など工夫を重ね、約40分にまで短縮した。当時のF230-30 の性能としては画期 的速度であり、トヨタ自工から" 信じられない、方式を教えろ" と言われた程である。 また大量計算の精度落ちと、大型マトリックスのデバッグ方法などにも悩まされた。 この経験は、当時富士通の技術部が取り組んでいたアレイプロセッサー(現在のVP )を開発する時に、SEとして大変役に立った(昭和45年)。

当時アレイ プロセッサーの応用分野と言えば、原子力や気象予測計算が主なテーマ で、構造解析は技術部にはあまり着目してもらえなかったが、アレイ プロセッサーの 仕様へ、SE側から明確な要件を出すことができた。

3)有限要素法
骨組構造物を、変位法プログラムで見事に解いた世界の構造解析研究者は、その思想 の延長上で、連続体(板等)の解析を、コンピュータ向きに行う計算手法の開発に取り かかっていた。物理現象を偏微分方程式で表現し、これを積分し、系全体の挙動を解く 手法は、従来差分法しかなかったのであるが、新たなコンピュータ向き手法として、有 限要素法が生まれつつあった(昭和44年)。

日本で有限要素法の啓蒙活動を開始しておられた東大の川井教授と、海事協会殿が、 富士通に熱心に声をかけて下さった。当時、有限要素法の日本語の文献は全くなく、ツ ィンキィビッチの英文を、海事協会の先生方が輪読する会に出席する所からスタートし た(昭和45年:担当 小寺S45年入社)。

この勉強会に沿って、平面板有限要素法プログラム、曲げ問題有限要素法プログラム 、ソリッド有限要素法プログラムの開発を進めた(昭和45〜47年:担当 広田S4 5年入社)。

ここでもマトリックス解法が最終的には問題で、数百元〜数千元のマトリックスの高 速解法(Tidal Wave法と命名) の開発に同時に取り組んだ(昭和46〜49年)。 この延長上でマトリックス言語の開発、大型マトリックス演算ライブラリの開発も行 った(昭和50〜51年:担当 五十嵐S50年入社)。

建築分野では、山下設計事務所殿からの共同開発依頼で、建築のラーメン構造物の静 的解析と動的解析のプログラム(STRAN、SD−I)の開発も行った(昭和47年 :担当 久保田S44年入社、佐藤S46年入社)。

4)ASTRA
骨組解析プログラム、建築解析プログラム及び有限要素法の3種類のプログラムを持 ち、更に要素の拡充や、熱等の有限要素法の開発が必要とされていた。
一方米国では、この分野で巨大なプログラム開発投資が行われ、ASTRA、NAS TRAN、STRUDLなどの開発が進んでいた(昭和46年)。

米国ボーイング社は、変位法と有限要素法の産業界での雄であり、ここが開発したA STRAは、ほとんどの有限要素法を網羅しており、現在、話題の大変形解析も一部含 んでおり、しかもB727に適用済みという状況で、日本や我々のはるか先を行ってい た。

そこで自社開発を続けると同時に、思い切った手を打つ必要があると判断し、AST RAを導入することに決定した(昭和47年)。着目していたNASTRANは未だ開 発途上であった。

ASTRAソースプログラムを購入し、F230/60、45用にコンバージョンを 行い、総合的な有限要素法プログラムとして提供を開始した(昭和48年:担当 栗山 S43年入社、広田S45年入社、高塚S46年入社)。
このASTRAは日本で最初の有償のアンバンドリングソフトとして売り出したもの で、当時の新聞にも大きく取り上げられた。初の有償商品のため、価格設定や新ルール 設定等に苦労した。

販売では、有償の理解を最初に示していただいたのは日本軽金属殿であった。これが 皮切りで、約20社に販売することができた。

尚、このASTRAプログラムとCOSMICから取り寄せたNASTRANの文献 には、有限要素法以外に学ぶべきものがあった。それはシステムのアーキィテクチャで ある。この両プログラムには、専用のDB、モニター、動的なプログラムとデータ領域 の管理、専用の言語プロセッサー、マクロ、大型マトリックスのデバックの仕組みなど 、システムとして整然たるアーキィテクチャがあった。またその開発プロセスには、プ ログラム自動生成の言語的アプローチが試みられていた。このようにエンジニアリング 分野でも、数式や物理現象を、ソフトの世界へ抽象化、構造化する考え方は、後のIC AD開発(担当:吉村S46年入社、湯浅S49年入社、西村S52年入社等)にも非 常に役立った。

5)FEM5
これらの経験を通して、有限要素法プログラムのコンセプトを把握し、当社独自の有 限要素法プログラムFEMの開発を開始した(昭和50年:担当 吉村S46年入社) 。その後、機能拡張を図りつつ、現在のFEM5にまで達している(担当:内池S47 年入社、小森S50年入社、阿部S49年入社)。この開発では市場の狙いを中堅企業 に絞った。コンパクトな点と高速処理で、米国ソフトとの差別化を図り、現在までに約 300ユーザに提供することができた。

6)プレポストプロセッサープログラム
構造解析プログラムのインプット、アウトプットの位置付けにあって、構造物の図形 表示を行うものが、プレポストプロセッサである。XYプロッターやグラフィックディ スプレイを用いて、解析結果の表現方法や構造物形状に応じた様々なプログラム開発を 行った。

当時のリレーショナルデータベース研究を背景に、エンジニアリングデータベースの 研究を行い、これをコンセプトにまとめあげ、数件の商談にも活用した(担当:湯浅S 49年入社)。

これらの集大成が、トヨタ自動車工業殿のプレポストプロセッサーVESTAの共同 開発であった(昭和50〜53年)。

トヨタ自工殿へ誕生したばかりのM190の売り込みが開始され、用途として構造解 析も有力な候補であった。これまでの蓄積を動員して、トヨタ自工殿へ、週一回づつの 新提案を2ヶ月間続けた。当時のエンジニアリング部隊全員の一致協力した作業で、そ の結果、構造解析用としてM190の使用が決まり、プレポストプロセッサーの開発が スタートした。

当時としては大規模な1000人月プロジェクトで、トヨタフィールドSE部隊とエ ンジニアリングアプリケーションSE部隊が豊田市に集結した。

開発されたVESTAプログラム(担当:高木S42年入社、大屋S45年入社、石 垣S43年入社、湯浅S49年入社、小林S50年入社等)は、当時のこの分野のトヨ タ自工殿と富士通のスキルを融合した傑作品と自負しているが、短期開発のために、ト ヨタ自工殿専用システムになってしまった。

この反動として汎用プレポスト開発投資に躊躇が生じ、その後遺症が現在まで尾を引 くことになってしまった。

7)CADへの準備段階
VESTA開発は人材育成の面では、大きな成果があった。開発のメンバーが、シス テムアーキテクチャをベースに、図形処理、GD、DB及び対話処理を統合化する技術 を収得し、今日まで続くICAD開発に大きく寄与することとなった。

VESTA開発と並行して、今後の図形処理、特にCADへの模索を開始した(昭和 50〜52年)。

7・1)CADは、従来、ユーザ毎に開発されてきたが、米国のコンピュータビジョン 社がミニコンとテクトロのディスプレイで、初めて汎用のCADシステムを開発 し、ビジネスとして成功をおさめはじめていた。これを富士通の半導体部門で導 入しており、その使い方の調査を開始した(担当:清沢S46年入社、佐藤S4 6年入社)。

7・2)ボーイング社とNASAが、ネットワーク型もリレーショナル型も同時にでき るエンジニアリングデータベースを開発し、この上に、CADを中心とする今日 で言うCIMシステムの構想を発表しつつあった。IPADプロジェクトである 。この一連の論文をジックリ研究した。

7・3)当時の世界のグラフィックディスプレイ分野で主テーマとなっていたリモート グラフィックス(現在のサーバ・クライアント)の論文も研究し、リモートグラ フィックスシステムの開発を行った(担当:上田S51年入社、藤田S53年入 社)。

また3次元ディスプレイの導入、その蛋白質構造への適用研究(担当:福岡S 52年入社、河野S51年入社)、東京電力殿との電力系統図面の管理システム の共同開発(担当:奥西S47年入社、星野S53年入社)等、実用へ向けての 先進研究も続けた。

7・4)今後の進路を考える上で、コンピュータグラフィックスの基本を、もう一度見 直す必要性を強く感じ、米国のグラフィックスに関する論文、シンポジュームの 文献を調査し直し、会話処理、データベース、イメージ処理、図形処理の汎用構 造等の基本要素の最新技術の探究を行った(担当:西村S52年入社)。

このような活動の後に、いよいよCADプロジェクトを開始した。
まずCADプランを作成したが、特定の顧客を獲得するのが早道と考え、松下電器産 業殿のエアコンプレッサー部門への売り込みを行った。この商談は失敗したが、次の富 士電機殿への売り込みは、トップ商談として受注することができた(担当:平井S44 年入社、清沢S46年入社等)。ここからICADの具体的開発が始まった。その道のりは険しく挑戦に続く挑戦で、やがて海外まで展開していくことになるが、これについてはここでは言及しないこととしたい。


3・5・4 おわりに
昭和40年大の先進技術研究への投資が、知的財産の資産化と人材育成を加速したよう に思う。それが昭和50年代に入って、数々の商品化、事業化を推進する原動力となった 。

例えば、POL に関しては、昭和50年頃、通産省の" 問題向きエンドユ-ザ言語研究" を経て
、名大プラ研、豪州CSIRO の" 核融合向言語" 、NASDA の" 研究者用問題向き言語" の開 発へと結び付いていく。また、トヨタ東富士のAXEL、富士電機のICAD、F75 アレイ プロセッサ 等の開発へも大きく貢献した。このことを執筆者、並びにプロジェクト参加者の誇りと していきたい。

さらに、開発にあたっては、業界、技術動向を徹底的に調査し、けんけんがくがくの 議論をする習慣を当時の部長から学んだ。この良き伝統を途絶えることなく伝承してい きたいと思っている。