歩き出してすぐ左手に小さな森が見えたので引き返して自転車屋さんで聞くと八幡神社だという。入り口が分からず歯医者さんの駐車場を横切って裏手から入った。この地域の鎮守さまだった。すぐ近くに平等寺があったが通り過ぎた。数分で田園地帯に接する県道201号線に出る。
二つ目の分かれ道から田んぼを縦断する細道を歩く。「セミナリヨ史跡」の標識があったのでなんだろうと思って道を逸れた。十数m四方のマウンドがあったが何も案内がない。小さな池に釣り人がいた。「セミナリヨってどこですか?」「この池の反対側だよ」
セミナリヨって聞いた覚えがあるが、案内板を見て「初等教育の神学校」のことだと分かった。1580年に信長から下附された土地に教会が建てられ、高山右近の支援を受けて開校したという。史跡公園の大きな桜が満開だった。池のかなたに安土城跡がある山が見えた。
ここから安土城址入り口まで徒歩10分ほどだ。車道を避け池の堤を歩く。自生の草花に心を奪われる。城址への登り口手前右側が公園になっており桜が満開だった。お昼時で、何組かの花見客がお弁当を食べていた。
大きな荷物を担いだまま登るのはためらわれた。駅にも城址公園にも預けられるところはなかった。登り口に小さな券売所があった。眼前に急な階段が延びている。 「うわ~きつそうだな。荷物がなければな~」と愚痴をこぼすと、券売の女性が「預かりましょうか?」と声をかけてくれた。狭い小屋の中の足元に置けるというので、好意に甘えた。小さなザックに必要なものを入れて「さあ登るぞ!」と気合が入って元気になった。
登り口左手にテレビで見た遺構発掘現場があり、すぐ上に秀吉邸跡があった。右に左に寄り道をしながら登る。
幅の広い階段を登る道は、大手門道という。直登するのでちょっときついが十数分で緩やかな道にでる。まっすぐ進むと総見寺跡の三重塔に出る帰路になる。天守閣跡へは右に曲がり、いくつかの石段を登っていく。
10分ほど登ると、織田信澄邸跡や森蘭丸邸跡があり、室町時代中期の"仏足石"がある。さらに石段を登っていくと信長公本廟があった。そこが二の丸跡で、右手にあがるとちょっとした広場に出る。本丸跡である。まっすぐ進むと八角平にゆくはずだが通行止めになっていた。天守閣跡はすぐ上にあった。
遠くに琵琶湖が見えた。安土城が築かれた当時の安土山の北西は琵琶湖だったそうだ。いまも残る西の湖が琵琶湖の一部だったという。天守閣跡は思ったほど広くはなかった。こんな狭いところに七層の天守閣を築くという信長の発想に恐れ入る。西北以外は木々が邪魔をして眺望がきかないが、かつて天守閣からは360度周囲を睥睨できたことだろう。安土山の標高は192mだから天守閣最上階は200mをゆうに越えていた。東京駅横の丸ビルの屋上(地上高179m)より高い位置にいると天下をとった気分になる。
若いカップルがいたがすぐに去った。しばらく佇んで信長の時代に思いをはせる。ポツポツと人がやって来ては去っていく。 軽登山の服装をした女性がきたので挨拶をする。石川県から車できたそうで、この後彦根に移動し、佐和山城址に登る予定だという。一年前に登った山だ。野生の猿の集団、イノシシに遭遇した記憶がよみがえった。猿の集団は人に襲い掛かることがあるので注意するようにとの案内版があったことを教えてあげた。
総見寺跡の三重塔まで下ってくると眼下に西の湖が見えた。写真を撮ろうとしてデジカメがないことに気付いた。帽子もなかった。歩いているときに落として気付かないことはない。おそらく天守閣跡で腰掛けたときに横に置いて忘れたのではないかと思い、引き返した。
天守閣跡を囲む石垣の外側にあった!腰掛けて休んだとき、帽子とデジカメを横に置いたのが転げ落ちたということだ。見つかってホッとした。石垣といっても数十センチくらいの高さだったのでカメラが壊れることはなかった。
時刻は3時を過ぎていた。西の湖に寄り道をして安土駅に向かった。信長の城のひとつ、岐阜城にも登りたいと思い、その夜の宿を探したが、大垣、岐阜、名古屋ともに空き室がなく、あっても高すぎたのであきらめ、浜松まで行くことにした。お目当てはうな重だ。
GPSmap実測距離 9.12km、歩数計 18,247歩、経過時間 5時間25分