×

青春ぶらり旅

ある会議の講師に招かれ、十数年ぶりに富山を訪れた。むかし仕事で何度か来たことがあるが、飛行機とタクシー利用で、富山駅周辺は素通りするだけだった。講演が終わった後、市街を散策した。曇り空だったが、遠くに立山連峰が見えた。学生時代に始めて登った山々で懐かしく思い出した。

富山鉄道で立山駅、そこからケーブルカーで美女平へ。美女平からはバスで室堂まで。雷鳥沢にテントを張り、翌朝3時に起きて剣岳を目指した。それまで登山をしたことはなかった。いまから思えば無謀なことだったのかもしれない。しかし若さと体力があった。カニノヨコバイといった岩場の難所があったがとくに危険も怖さも感じなかった。むしろそういう岩場を歩くことが心地よかった。

剣御前小屋まで引き返し、そこから立山連峰(真砂岳~大汝山~雄山を縦走し、なんとか夕暮れまでに雷鳥沢のキャンプ場に着いた。夏山といえど、剣沢にも立山縦走路にも雪が残っていた。ピッケルもなしによくも歩いたものだと思う。雪渓に穴を掘って滲みでてくる水を飲んでのどの渇きを癒した。同行者が4人いたと思うが、この水が原因かどうかは分からないが同行者3人が体調を崩し、一人は富山の病院に入院したと後で聞いた。

翌朝、富山に引き返す人たちと別れ、数人は東一ノ越を越えタンボ平を下って黒部ダムまで歩いた。当時は立山トンネルもロープウェイもなかったから歩くしかなかった。教授のお声掛かりで関西電力の人が黒部ダム見学の案内をしてくださった。おまけに関電専用のトロッコ鉄道に乗せていただき、阿曽原~欅平まで行くことができた。それがなければ下の廊下と呼ばれる険しい黒部峡谷沿いの崖道を歩かなければならなかった。それは登山上級者にしか許されない危険な道だった。

この剣・立山登山がのちの私の人生に影響を与えたことは確かである。東京に勤務するようになってからも三度剣岳に登ったが、それだけに留まらず初夏から初秋までの雪のない季節は月2~3回の頻度でいろんな山に登った。単独行が多かったが、20代後半になってからは友人・知人に声を掛けられ一緒に登ることが多くなった。テントなどの共有装備や食料などを担ぐと20~30キロの重さになったと思う。腰を落とし背負って立ち上がるのが大変だった。そんな状態で険しい山を歩けるのは、若さゆえのエネルギーと体力があったからだろう。

黒部からの帰り、宇奈月温泉から富山地方鉄道で富山に出た。その後どういう交通手段だったのか記憶にないが、能登半島西側の付け根にある羽咋海岸に行き、そこでテントを張った。室堂で別れた友人4人が合流するはずだった。しかし誰も来なかった。帰ったら下宿先にはがきが届いていた。三人が体調を崩し一人は富山病院に入院したという。

富山に数日滞在し、講演の準備のかたわら昔々の思い出が甦って、あれこれと書いてしまった。昔を懐かしむ年齢になったということだ。帰りは北陸本線で途中下車の旅を楽しんだ。何も計画せずにその日の思いつきで途中下車する。思いついたのは金沢・兼六園くらいだったが、土地の人に聞いたりネットで探したりして、高岡古城址、永平寺、東尋坊などを訪れた。

Play Video

×
    original