奈良県第三の都市、大和高田市。実家から田園地帯を自転車で走って30分くらいの距離にある。田舎の子供にとって、そこは年に数回訪れる大都会だった。ゴムのズックから運動靴に履き替え、よそ行きの格好に着替えて友達と遊びに行った。夏のお目当ては天神(社)祭りで、日ごろは目にすることもない晴れやかな人たちで混雑した。天神祭りといえば大阪天満橋だというのは高校生になってから知った。
それまでは村の子供たちにとっての都会といえば、大和高田市と田原本町だった。夏と秋の祭りのときに行くだけだった。人ごみと屋台が立ち並ぶ様が都会を感じさせた。いまも記憶に残る屋台(露店)のご馳走といえば「カンドニ」である。おそらく「関東煮」と書くのだろう、今で言うオデンのことだ。ジャガイモやダイコンはありふれていたが、チクワやゴボテン、ガンモなどの人工食品は大和の田舎では珍しかった。「タコヤキ」は冬場に月に数回くらいだろうか、セイタロサンというおじさんが屋台を引いて村に来た。紙芝居のおじさんもきた。それが村の子供たちの楽しみだった。あとは裸足で野原を駆け回ったり鬼ごっこや「ベッタン」をして遊んだ。
「ベッタン」というのは関東などではメンコ(面子)というらしい。土地によって使うメンコや遊び方は違うようだ。男の子の遊びで、女の子が一緒に遊ぶことはなかった。男女七歳にして席を同じうせず~という文化が残っていた。男の子は、ベッタンとかポリスといったゲーム、ゴージャンジャンとい村(数十軒、周囲数百m)の中で遊ぶ鬼ごっこ、タケウマにタコアゲ、カマド造りにヘラブナ釣り、池や川での水遊び、ドンズルボウ探検などをしたが、女の子は何をして遊んでいたのだろうか?
話が子供頃の遊びになってしまったが、都会に出かけて遊んだ思い出が残っているのが大和高田の市街地である。商店街には人が行き交い、珍しい品々がたくさん並んでいた。時計屋さんもあったのが印象に残っている。お祭りのときには戦争で手足を失くした傷痍軍人さんたちが白装束で托鉢のようなことをしていたのも鮮明に覚えている。
いまは昔の面影が残っている所はほとんどない。商店街はアーケードになってきれいだが人影がほとんどなくシャッタが降りたままの店が目立つ。高田氏に関わらず、それが地方都市の現実だ。露店が並び、盆踊りでにぎわっていた池周辺の広場はなくなり、大きな近代的な公民館が建っていた。
大中公園(いまは桜の名所)はわずかに昔の面影があったが、池のほとりに能舞台が建っていた。静御前が、実母(礒野禅尼)のもとに身を寄せたとき舞った舞台だといわれているが、おそらく観光行政のたまものだろう。一緒に逃れてきた義経一行が、礒野禅尼のもとに身を隠すときに一休みにと座ったとされう七つ石が、大中公園近くの春日神社境内にある。