※高尾義博さんの記事(「誇りの翼」 - 槍ヶ岳山頂での墜落事故の記録)をテキストのみバックアップした。

 

 槍ヶ岳山頂での墜落事故の記録~

この手記は、私が尊敬する先輩のものです。

航空救難団の経験した航空事故の中でも、最も困難な災害派遣中の事故で、これを読むたびに冷や汗が出ます。ご本人からは、「後輩達のために役立ててほしい・・」と、以前頂いたもので、HPに掲載することの承諾を得ていませんので、お名前は伏せておきますが、誰が読んでも救難の厳しさが理解できる手記であると思いましたので、あえて掲載させて頂きました。

多くの方々に救難現場の実態を知っていただければと思います。

 

着陸場所のない飛行記録

      ~槍ヶ岳、奇跡の生還~

     

通常、操縦士の飛行記録には、離陸場所と離陸時間、飛行時間、着陸場所と着陸時間及び任務内容等が記録されている。しかし、昭和五十三年五月十一日の私の飛行記録には、着陸場所と着陸時間が記録されない奇妙なものとなった。

その頃、私はヘリコプター操縦士として航空自衛隊小松救難隊に勤務していた。

当日は、好天に恵まれ、長い冬の曇天から解放された北陸地方特有の萌えるような新緑を眼下に見ながら、愛機V107型ヘリコプターを操縦し、五名のクルー編成で白山(2702m)において「登山中に滑落し、負傷した遭難者」を想定した捜索・救助訓練を実施していた。

訓練開始から約五十分後、隊指揮所から「災害派遺要請の情報を入手中、直ちに帰投せよ」との指示を受け、小松基地に帰投し着陸した。

災害派遣の要請内容は、「五月十目に槍ヶ岳付近で遭難した女性登山者救助のため出動した山岳救助隊五名が、疲労困憊のため二重遭難の恐れがあるので救助して欲しい」というものであった。

槍ヶ岳は、標高が高く(3180m)、地形が厳しいので危険度が高いと判断した隊長のN2佐は、自ら機長となり、私は副操縦士として出動することとなった。

クルーは、機長、副繰縦士、救難員二名、機上無線員の五名編成である。救助活動に必要な気象情報を、現場に近い富山空港及び松本空港から入手したが、天侯は良好であった。出動クルーは、直ちに離陸できるよう、救助に必要な機材や燃料を搭載し、準備を終え出動命令を待った。

午後三時十分上級司令部から出動命令が出た。我々は三時十六分小松基地を離陸し、一路、要救助者が待つ槍ヶ岳方面へ向かった。

このような救難行動をする場合には、遭難者をいち早く発見すると共に現場の状況を把握するため、速度の速い捜索機(MU2型機)を先行させる方式をとっている。

注1

救難隊は、自衛隊の航空機が事故等に遭遇した場合、乗員の捜索・救助を主たる任務とする部隊である。また、自衛隊の固有任務である「国民の生命・財産を守る。」ための行動の一つの「災害派遣」に、ヘリコプターの特性を活かして出動することが多い。

救難ヘリコプター(以下「ヘリ」という。)は、先行する捜索機と連携し、情報を交換しながら現場に向かった。

午後三時三十二分、捜索機は魏場に到着したらしい。我々が最も知りたいのは、要救助者の正確な位置と現場付近の気象である。捜索機から無線で、

「三十八分、要救助者らしきものを発見。場所は槍ヶ岳山荘屋上、山荘付近の天気は、やや雲はあるがヘリによる救助は可能と思われる。なお、風は二百七十度方向から三十五~四十ノット、山稜の東側には中程度の乱気流がある。」

「了解、ヘリは小松東方四十マイル、高度八千フイート、引き続き上昇しながら進出中」ヘリが上昇するにつれて山容は緑から徐々に残雪のため白く変わり、冬景色に戻る。ヘリは、捜索機と情報交換を続けながら進出し、四時七分現場に到着した。付近を捜索したところ、雲間から要救助者を発見し、確認した。山荘には時々雲がかかっており、その雲は千切れるように激しく流れている。

山の天気は変化が激しく、厳しい。高度は既に一万フイートに上昇している。外気温度は氷点下五度。この付近の山々は、全面雪に覆われており、未だ冬のまっただ中である。

現場を偵察しながら救助の方法を検討した。その結果、現場付近には着陸できる場所がないのでホバリング(空中停止)し、救助用のウインチで晴り上げることとした。

風向風遠、乱気流の状況等を考慮して、南北の稜線に沿って風上側(酉側)を北から南へ進入することにした。

「ヘリは、ただ今から進入する。ホバリングは、山荘の北酉側にある岩の凸部とする。」

と無線で捜索機に伝え、再度入念な計器類の点検を実施し、異常のないことを確認した後進入を開始した。

山荘に近付いたとき雲がかかってきて見えなくなり、離脱した。次の雲の切れ間を風上側の上空で待つ。

山荘にかかる雲は、一旦は切れるものの、短周期で次々と押し寄せてくる。このような行動を四回も繰り返した。残燃料が少なくなり、長くは待てない状況となってきた。

「次にもう一度トライして不可能であれば基地に引き返す。」

これが機長の決心であった。

この時、捜索機から、

「次は雲の切れ間が長いと予想される」

との情報を得、最後の進入を開始した。

雲は早く流れているが山荘をはずれている。

今回は目標である岩の凸部に進入し、ホバリングできた。エンジン出力を点検したが、救助できる出力があることを確認した。

次に、遭難者が待つ山荘の屋上へゆっくり移動しながら機首を西(風の吹く方向)に向けた。風が強いため山荘に近づくにつれ、乱気流による上下左有の揺れが徐々に激しくなった。

「これなら何とか救助できそうだな」

と機長は再確認するように眩いた。

副操縦士である私は引き続き各種計器類の点検、障害物等の見張り、捜索機との無線連絡及びキャビン・クルーとの連携など忙しい。

キャビン・クルーはウインチでの吊り上げ準備を完了している。

ヘリコプターの性能は、標高が高くなるにしたがって低下する。理由は次による。ヘリコプターの揚力は、回転翼が空気に当たることによって生み出されるが、高度が高くなるのに比例して空気密度は低くなるため、回転翼に当たる空気量が少なくなり、揚力は低下する。その結果として、ヘリコプターの性能が低下するのである。

いよいよ、一人目の救出である。山荘の屋上には救助を待つ数人の姿が見える。クルー全員の緊張度が最大になる時である。キャビン・クルーの巧みな誘導で、乱気流に翻弄されながらも、ヘリは好位置を保っている。

「吊り上げ中、吊り上げ中」

「吊り上げ完了、二人冒の救出に移る。」

とキャビンクルーのインターフォンが聞こえた。

この時、突風に煽られるような揺れを感じると同時に、ヘリはゆっくりではあるがホバリング高度が下がり始めた。

キャビンクルーは

「ヘリアップ・ヘリアップ(高度を上げろ)」

と大声で叫び続けている。

「もうこれで一杯だ!」

と機長。

既にエンジンの出カ限界を超えており、回転翼の回転数も低下を始めている。ヘリの高度低下は止まらない。このままでは・・・

ヘリはホバリング高度が低くなると地面効果(回転翼の吹き下ろし流と地面との聞で空気が圧縮され揚力が増すこと。)により高度低下が止まることを経験しているので、これを期待した。

しかしながら、この期待はむなしく打ち破られて、ヘリの沈下は続き、遂に山荘の屋根に右車輸が接触した。

その反動で上昇することを再度期待したが、無駄であった。ヘリは屋根に接触した後、左方向へ二~三回バウンドし、十メートルくらい移動した後、急激に左へ転覆し始めた。

この段階ではもう操縦不能である。

左に回転しながら、山荘の別棟のトタン屋根に回転翼が当たり「ババーン」という凄い轟音と共に、屋根材と回転翼ブレード(六枚)が粉々になって飛散するのが見えた。

回転翼が屋根に接触した瞬間、機体は大破し、火災の発生も予想されたので、私は機長の指示を受ける暇もなく、直ちに両エンジンのレバーを「オフ」の位置にすると共にバッテリー・スイッチ、燃料供給スイッチ及び点火スイッチを「オフ」とした。

これらの動作は、操縦士として十六年五ヶ月、飛行時間三千五百四十四時間の経験と日頃の「緊急操作訓練」により培った成果であろうと思っている。

この動作をしながらも、眼下は千尋の谷、千メートル以上もある絶壁が目に飛び込んできた。

「アッ、死ぬ!!」

と思った。

槍ヶ岳山荘は「馬の背」のような稜線上にあり、前に落ちても後ろに落ちても千メートル以上の滑落は免れず、地獄が大きく口を開けて待っているのだ。

戦記物や事故事例に、人が死を目前にすると「父母や妻子のことが脳裏をかすめ云々」と書かれたものを読んだ記憶があるが、私は唯「死ぬ」と思った以外は何も考える余裕がなく、自分のなすべき業務をしただけであったような気がする。

この時の年齢は三十八歳であり、妻と二児を持つ家庭の長であったが、夫や父親としての責任感が希薄であったのであろうか?轟音と共に機体がほぼ百八十度左回転し背面となった後、一瞬の静寂があった。機長も私も辛うじてシートベルトの助けで逆さ宙吊り状態で止まっていた。この時初めてシートベルトとヘルメットの有効性を実感した。機長は一時的に呆然としていたようであったが、すぐに気を取り直し、キャビンにいる三人の乗組員と一名の救助者(遺体)に対し、肉声で

「大丈夫か?」

と大声で呼び掛けた。

キャビンから

「全員大丈夫です」

という返事が返ってきたので一安心。

現在機体は静止しているが、傾斜のある屋根から何時ずり落ちるかも知れないし、火災の発生も懸念されたので、機長は

「直ちに機外へ脱出せよ」

と指示した。

この時すでにウインチを操作していた隊員は、振り落とされるように機外の人となっていた。

彼が、緊急脱出扉を機体の外側から開けてくれたので、キャビンクルー、私、機長の順に山荘の屋根の上に脱出した。

脱出の際、私はトタン屋根に漏れていたエンジン・オイルの上に第一歩を踏み出したので滑って転倒したが、右腕の肘に軽度の擦過傷を負っただけですんだ。機外へ脱出した後、背面状態になった機体を点検すると、ジェット燃料がタンクから漏れて、高温のエンジン排気口に滴り、「ジュッ・ジュッ」と音を立てて、白い煙のように気化している。

これに引火でもすれば一瞬にして大火災になるかと思うと、身の毛がよだつ思いであった。ヘリは何故山荘の屋根から、奈落の底に落ちなかったのか?。

これは後になって分っことであるが、ヘリが左へ横転し回転翼が屋根を叩いたとき、六本のブレードは、回転軸の付け根から折れて飛散した。

エンジンを停止したとはいえ、まだ回転力は残っていた。

この段階でヘリが転覆して背面状態になったため、恰も錐で穴をあけるように、回転軸が屋根に食い込み、楔を打ち込んだような状態となり、落ちずに済んだのである。

もしも、ヘリが背面状態にならなかったら、「楔」となって固定するものは何もなく、恐らく谷底まで滑落し、全ては終わっていただろうと思う。

背面で、しかも、楔を打ち込んだ状態は、意図して出来るものでなく、百回トライしても、恐らく成功しないと思う。

まさに「奇跡」によって、我々は生かされたのだ。

その後、救助を待っていた人たちの所へ行き(既に屋上から下りて、山荘の広間にいた)、「怪我はなかったですか?」

と訊ねたところ、奇跡的に全員が無事であることが確認できた。

彼等が救助を待っていた場所には、屋根材や回転翼ブレードの破片が散乱していたのに誰にも当たらなかったのは、まさに天の恵みとしか言いようがない。

山荘の管理責任者であるH氏の所へ行き、機長である小松救難隊長(以下「隊長」という)が

「このような事態を引き起こし申し訳ありません。山荘の修復等については、航空自衛隊として適切に対応させていただきます。そして、寒くて申し訳ありませんが、機体から燃料が漏れていますので、ストーブなど火気の使用は暫くの間中止してください。」

とお願いしたところ、快く引き受けてくれた。

一緒に行動していた捜索機は、まだ上空を旋回して我々の行動を見守ってくれている。恐らく墜落後の状況を小松基地へ無線で報告しているものと思われる。

しかし、携帯無線機は機体の中に残してきたので、捜索機に対しては我々の安否を含めて連絡ができずに時間が流れた。

五時三十分頃、燃料の漏れも殆ど止り、エンジン排気口の温度も低下して、火災の危険性がなくなったので、機体に搭載している装備品等を搬出した。その中にある「対空布板」(四十センチ×百二十センチの布で赤色と青色のものがある。)を取り出し、雪の上に「LL」と表示した。これは、国際救難信号の一つで「全員無事」を意味するものである。

捜索機は、この信号を確認したのか「了解した」を意味する「ロックウイング」(翼を左右に振る仕種)して、間もなく小松基地の方向へ帰っていった。

一方、隊長は山荘の管理責任者に対し、小松基地との連絡手段について訊ねていた。現在であれば、高性能な無線機や携帯電話などで直接基地と連絡が可能と思うが、当時は次のような方法で連絡した。

先ず、山荘の無線機で麓にある無線局と交信し、その音声をNTTの電話に近づけて中継し、会話する方法しかなかったようである。このため、雑音は多かったが、何とか意思疎通は可能であった。小松基地へは乗組員及び要救助者共に怪我等がないこと、並びに機体や山荘の損壊状況の報告を行い、基地からは今後の行動予定等について指示があった。

この段階で、乗組員の家族には「無事」であることが伝えられたものと思う。

事故発生後の応急的に実施すべき事項を、乗組員全員が山荘管理人等の助力を得て、精力的に行った。

これらを実施する間、私は常に隊長の近くにいて彼の行動に注意を払い続けた。

それは、多分その前の年であったと思うが、民間の小型機(セスナ機)が白山山系で空中写真を撮影中、エンジン・トラブルのため山腹に墜落し、乗員が死傷する事故があった。当該機の機長は可成りな負傷を負ったにもかかわらず、救助を求めるため麓に下ろうとしたが、心身の苦痛に耐えかね、崖から転落したという事例があった。

一命は取り留めたが、責任を感じて自殺を図ったのではないかと噂されたことがあったのを思い出したからである。

普段から隊長の性格は十分理解していたが、万一そのような行為があっては取り返しがつかない。せっかく「万死に一生」を得たものが無駄になっては申し訳が立たないと思ったからだ。

しかし、これは私の危惧に終わった。

時間の経過と共に気温は一段と低くなった。恐らく氷点下十度近くなったのではないかと思われる。しかし、操縦士は飛行中の機外作業がないので、五月も中旬になれば夏用の飛行服に着替えているため、寒さが身に応える。

ここで震えていると、事故の恐怖から震えているのではないかと、回りの者から思われたくなくて懸命に「やせ我慢」をした事を覚えている。

時刻は夕方近くなった。小松救難隊のヘリが、要救助者と我々事故機の乗員を救助するために飛来した。

山荘付近の雲はとれたものの、風は相変わらず強く吹いていたので、同じ事を繰り返さないために、帰投するよう指示した。

これは、要救助者の状態は一刻を争うような緊迫したものではなく、また、我々乗組員五名も精神的には深く傷ついてはいるものの、身体的には急を要する状態ではなかった。

その上、山荘には宿泊施設と、食料は十分あるので、長期宿泊に対応可能とのことであったためである。

夕刻となり、日没時間を迎えた。外が赤々と輝いているので戸外に出てみると、太陽が西の山の端に、まさに沈まんとしていた。上空には一面に雲がかかっており、西方向には山荘よりも低い雲があるものの、沈みゆく太陽の位置だけには雲がなく、上の雲と下の雲の間から赤味を一杯に帯びた夕日が、大槍・小槍をはじめ山荘や私の顔まで周辺一帯を赤く染め尽くし、その鮮やかな光景はこの世のものとは思われないように美しく、神秘的であった。

ここで、「私は、本当に生きているのだろうか?」と、この情景を眺めながら自分に問いかけていた。

日が沈み薄暗くなった頃、下にある「殺生ヒュッテ」から夕食を運んできてくれた。

これは、事故による燃料漏れのため、「火気使用は控えてください」とお願いしたので、山荘では調理が出来なかったためである。

有り難いと思いながらも、今日の出来事を顧みると、美味しくはいただけなかった。

我々は、事故のため任務が出来ず、大切な国有財産を損壊した。

更に山荘にも大きな損害を与えてしまった。

乗組員の五名それぞれが、事故の衝撃を心に刻みながら、黙して夕食を摂った。その後、隊長から、基地との打ち合わせ事項や明日の行動予定について説明があり、それぞれの役割が示された。

明けて、五月十二日午前四時四十分頃、小松基地から飛来した捜索機(MU2型機)の爆音で我々全員が屋外に出た。昨日、事故機内から持ち出した携帯無線機(EK219)で、連絡したところ、間もなく救助ヘリコプターが飛来するので準備するようにとのことである。早速、要救助者五名に対し急いで準備するよう促した。

彼等の準備が整った頃救助ヘリは到着した。

このヘリは、同じV107型機ではあるが、昨日のうちに福岡県の芦屋基地から、本日の救助のために派遣されたエンジン出力増強型機である。

昨日とは打って変わって、朝の天侯は、晴れて風も穏やかであり、救助行動には問題ないと判断し、ヘリにその旨連絡した。

吊り上げ場所は、昨日よりやや西側に設定し、万が一出力が不足した場合でも、すぐ谷の方へ離脱できるように考慮した。

吊り上げは順調に行われ、要救助者五名と一遺体それに彼等の荷物を収容したところで、ヘリは一旦現場を離脱し、陸上自衛隊松本駐屯地のグラウンドヘ向かった。

次は我々の番である。持ち帰る手荷物等を整理し、山荘の管理人に、改めてお礼を申し述べると共に、機体の管理と火気の使用について注意をお願いし、再度飛来したヘリに一名ずっ吊り上げられて、「死の瞬間」を味わった槍ヶ岳を後にした。

今日は気流が安定しており、穏やかな飛行である。

ヘリは、松本駐屯地で燃料補給した後、小松基地に向かった。今日は遭難者として、別のヘリに乗せられての飛行である。我々が小松基地へ着陸したとき、小松救難隊の全隊員が整列して出迎えてくれた。

「ご苦労様でした。全員無事で帰隊されたのが何よりです。」

という意味の言葉をかけてくれたが、余り嬉しいと感じることは出来なかった。

我々も出迎えてくれた隊員もカラ元気を出そうと努カはしているが、沈んだ空気を打ち消すことは出来なかった。

帰隊すると落ち着く暇もなく、規則で定められている「事故後の航空身体検査」が実施された。

私は、昨日の事故による精神的衝撃のためか、又は、標高三千五十メートルにある山荘で殆ど睡眠がとれず宿泊したためか、血圧が百四十近くあったが、それ以外の項目は「異常なし」であった。

その後は、引き続き航空幕僚監部から派遣された航空事故調査委員からの事情聴取が行われると共に、小松基地警務隊による事情聴取(捜査?)が行われた。

事故調査は、事故の原因を調査分析し、同種事故の再発防止を図るために行われるものであり、調査結果により罰するという性格のものではない。

一方、警務隊による事情聴取は、事件性・犯罪性がないかを調査く捜査するものである。

根拠は、「航空の危険を生じさせる行為等の処罰に関する法律」で昭和四十九年に施行された法律である。その由縁は、昭和四十年代にはいって航空機のハイジャック事件が多発するようになり、それを取り締まる事を主たる狙いとして制定されたものである。しかし、その中に、「過失により航空機の危険を生じさせ、又は航行中の航空機を墜落させ、転覆させ、若しくは破壊したものは・・・罰する。」という条項があり、犯罪性や過失性等法に抵触が認められれば、罰せられることになる。

なお、小松基地警務隊は、岐阜県警と連携して調査(捜査)していると聞いた。それは事故現場が、岐阜県と長野県の境界線上で発生し、墜落した機体の三分の二が岐阜県側にあったため岐阜県警管轄となったものであるらしい。

これらの調査(捜査)が連日続いた。

気分の良いものではない。連日同じ質問を繰返しされる。その答えが少しでも異なっていると、しつこく追求される。事件もののテレビドラマに出てくる、態度は柔らかいものの、刑事が被疑者を詰問しているシーンと同じだと思った。この時、何回も書かされた供述書のコピーがまだ手元に残っている。

このような日々が約一週間続いた。

調査(捜査)の結果

「事故は予想困難な気象現象(突風)が原因であり、不可抗力により生起したものである。」との結論が下された。

もし、有罪となれば失職するかも知れないという不安もあったが、不起訴処分となり、自衛隊の内部処分も受けずに済んだ。

事故後、八日目に飛行再開が許され、検定操縦士による飛行検定をうけ「合格」し、晴れて操縦業務に復帰できたのは、何よりも嬉しかった。

最近、事故や悲惨な場面に遭遇すると、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥り、カウンセリングが必要だと聞くことがあるが、当時は、その言葉さえ知らず、私には「心的外傷後のストレス」は、特に感じなかったように思う。

自分は鈍感なのだろうか。

私は、この事故を経験してから、二十七年六ヶ月の間ヘリコプターの操縦士として、人命救助、救急搬送、物資輸送、林野火災消火等の業務を実施してきたが、この事故から得た各種の教訓を忠実に守るよう努めた。

そして、この事故から得た貴重な体験に併せて自分が永年蓄積した救助のための操縦技術、気象判断、任務可否を決心するタイミング等、技術力や判断力を向上させるため、機会ある毎に同僚や後輩に伝えてきた。

更に、この事故は私に対し「死生観」についても若干の変化を与えたような気がする。

このように、私が副操縦士として搭乗した救難ヘリコプターは「災害派遣」という任務で昭和五十三年五月十一日小松基地を離陸したが、任務半ばで悪天侯のため槍ヶ岳山荘の屋上に墜落した。

このため、私の飛行記録には、着陸場所と着陸時間が記録できないものとなった。

顧みれば、航空自衛隊のパイロットとして航空機の操縦桿を握り始めたのは、二十二歳の時であった。五十四歳で定年退官し、引き続いて、山梨県消防防災航空隊で六十五歳までヘリコプター・パイロットとして勤務した。

この四十三年間余に、練習機から戦闘機、ヘリコプターなど十一機種の操縦桿を握り、飛行時間は、約八千五百時間となった。これらの殆どがヘリコプターでの飛行であった。その殆どは、人命や財産を守るも任務であった。

即ち、瀕死の状態にある遭難者の救助、重篤な患者の救急搬送、林野火災の消火等であった。

それは、小松沖四百キロの日本海で重傷を負った漁船員の救助であり、夕刻、酷寒の富士山八合目に滑落した登山者の救出であり、四日間に亘り、三百七十二ヘクタール燃え続けた勝沼の林野火災の消火活動等であった。

厳しい気象状態下で困難な任務を達成した後の充実感は、他の誰にも味わうことの出来ない満たされた「至福」の時であったと思う。

「飛ぶ」ことは、少年期からの「夢」であり、その夢を叶えさせてくれた「航空機」と「空」には感謝の念で一杯である。

同時に、私の人生が凝縮されているように思う。

解説

本当に誰一人として死傷者がでずに良かったと思います。

実は、この手記を書いた先輩は、私の小説の「羽二重もち」に出てくる救難教育隊の教育班長です。私が航空自衛隊から排除されそうになったときに、この教育班長に助けてもらった恩のある先輩で、もちろん、その後のフライトでは相当に厳しく教育をされました。

しかし、その指摘は他の教官と少し違っていました。

私が、今日のフライトはだめだったと・・思っていると・・「高尾、今日のホバリングはすばらしかったな、あんなに上手い操作は最近見たことがない・・」と言われたかと思うと・・、「今日は上手くいった・・」と、フライトのディブリーフィングで内心褒められることを期待していると・・「あの判断では将来機長は務まらんな・・、あんなことをしていたらクルーを殺してしまう・・」と辛らつな指摘を受けたりしたものです。

今にして思えば、この手記のような、想像を絶する経験を積んできた者にだけ解る「本質」・・のようなものがこの先輩には見えていたのではないか・・と思います。人の予期しないないことを指摘する、通常の人とは違う着眼で物事を見ている・・そんな感じが、この人にはありました。

「いいか高尾、救難のパイロットというのはただ上手く操縦できればいいというものじゃない。急旋回とか計器飛行とかが上手いということよりも、救助の場面で航空機を的確に操縦して、且つ、厳しい状況で的確な判断をすること・・、それが重要なんだ。それができなければ救難の機長は勤まらない。クルーを生かすも殺すも、機長次第なんだ、それくらい救難のパイロットというのは厳しいんだよ」

戦闘機の部隊から転換で来た私の心の中には、その当時、救難を侮る気持ちがありました。彼はそこを見抜いていました。考えてみれば、このような厳しい経験をされた方です。人の心の中は、実はお見通しだったわけですね。

それ以来、私は、クルーに信頼される機長を目指して努力をしてきました。それが、数千時間の飛行を、事故なく全うできた重要なポイントであったと、退官した今感じています。

戦闘機時代にも低高度を高速で飛びながら死の恐怖を感じることもありましたが、救難ほどではありませんでした。実際に救難部隊においてパイロットとして出動した30件程の災害派遣では、何度となく「死ぬか、殺すか・・」の経験をしなければならず、今考えても冷や汗が出るくらいです。一般的には、航空事故の大半は離着陸時に発生しています。つまり、飛行状態からの接地、または、滑走から飛行状態へと遷移する際に多く起こっているのです。要は、低高度での地面との接触が、事故をもたらす大きな要因なのですね。

救難任務は、悪天候の山の中、あるいは夜間の海上を現場とする任務が多く、しかも視界が悪い中で、あるいは、揺れる船上の障害物を避けながら、ホバリングしながら救助するという、まさに地面との接触ギリギリのところで任務をしなければなりません。航空事故の危険との戦いなのです。航空路を決められた通りに飛行するのとは違って、救難機の機長は、いろんな状況判断をしながら航空機を安全に飛行させ、更に、救助のための判断をしなければならない。あるときは勇出すクルーを引き止めながら任務を断念する決心もしなければならない・・。こんな高度なことを要求されるのが、救難のパイロットなのです。しかし、そのようなことは救難任務で「死の恐怖」を感じたことがなければわかりえないことなのです。

 

 

やはり、この先輩には、死線を超える経験があったればこそ、そのような見方ができたのではないでしょうか。

私が後年、この先輩が勤務したと同じ救難教育隊の指揮官として救難の後進を育成するに当たっては、この先輩のことを考えながら教育に当たっていました。だめだと言われている学生でもいい所があり、すばらしいと思われる学生でも、だめなところがある。その評価は、一に、「将来機長として任務できる資質があるか」という一点にありました。それは、実は、この先輩に教わったことで、機長の責任の重さを感じられるかどうか・・にあります。技量もさることながら責任感や人格、指揮能力・・といった精神要素が将来機長としてクルーを指揮できるかどうかというところに大きくかかわってくる・・。そのような評価のあり方を、この先輩から教わりました。

航空自衛隊の初等練習機や輸送機の教育ならばそこそこ飛べれば務まる部分もあるのですが、救難の場合は、この手記に著されているような厳しい状況の中で任務をしなければならない現実があるのです。当然、機長に求められる資質というのは、それらとは違ってきます。そのような救難の現実を理解できない人は「救難教育隊に行ったら首を切られる・・」と、心無いことを言われる向きもありますが、そのような人には、ぜひこの手記を読んでいただきたい。悪い資質はクルーを殺す・・。それが救難任務の現実なのです。

そんな厳しさを教えてくれた先輩でした。