平家物語の出だしの句である。平安時代、主権は天皇にあったがその実権はむしろ藤原氏(五摂家)にあった。天皇の裔(すえ)と言えども孫の頃には無位無冠で、むしろ天皇の血筋が邪魔をするほどとも言えた。そんな中にあって志(こころざし)ある者は地方に下り、そこに土着して武士の頭領となることに活路を見出した。武士階級の出現である。武士階級は大きく2群に別れ、主として桓武天皇を祖とする者達を平氏、清和天皇の系に繋がる者を源氏と呼んだ。両氏ともそれぞれの土着先で頭領となっていったが、やがて相争うようになり、それは大きく源氏対平氏の戦いとなった。この覇権争いは保元の乱(1155年)及び平治の乱(1159年)を経て、平氏が勝利を得、世は平氏の世の中となった。
この時の平氏の総帥は平清盛であった。源氏を失墜させた後の清盛の覇権維持は、武力階級という力を一手に担い、経済的には日宋貿易を独占して巨額かつ恒常的な富を得、この富に物を言わせあるいは宋からの珍重物を献上することにより朝廷に入り込んで主要な官位を独占し、更には皇族と姻戚関係を結ぶことにより朝廷内にも隠然たる権威を振るうというものであった。板東武者として田舎者に徹した源氏と異なり、平氏は系図が皇室に遡ることを捨てきれず、藤原氏に代わって京の主となり政治を動かすことを理想としたのである。最盛時には清盛の一党が官位のほとんどを独占し、実に日本全国の半分近くを知行するほどになっていた。
この話の主人公である平敦盛が生を受けたのは正にこのようなとき、平治の乱から10年後の嘉応元年(1169年)のことである。奇しくも後の因縁となる熊谷直実(なおざね)の長子である小次郎と同年の誕生である。なお、熊谷直実自身は永治元年(1141年)、武蔵の国熊谷郷の生まれであった。
敦盛は清盛の直系ではなく、清盛の弟経盛(つねもり)の末子であった。経盛の子息と言うことは、平氏としては傍流に当たる。彼には経正、経俊などの兄が居た。そして兄たちは何とか官職を得るに至るものの、敦盛は生涯無冠で、「無冠の大夫」と呼ばれている。
無骨者の源氏に対し雅の平氏というように、平家の者は代々文学・雅楽に長じていたが、清盛、経盛らの祖父である正盛、父である忠盛もこちらの面でも京で知られていた。この雅(みやび)を愛する血筋は平氏全体に浸透しており、それ自体は文化と教養の高さを示すものであるが、この血こそが彼らを貴族への道へと向かわせ、ひいては滅亡の道をたどることになるのである。
雅の血は特に経盛、及び経正、経俊、敦盛の父子に良く生きていた。全員和歌をよくし、さらに経正は琵琶に、敦盛は笛にも秀でていた。傍流とは言え平家の一員として、雅と教養は贅沢なほどに教え込まれていたようである。彼らの幼少期についてことさらに資料は残っていないが、貴族同様の何不自由ない雅(みやび)な生活を送っていたことは想像に難くない。経正は覚性入道親王から琵琶「青山」を、敦盛は鳥羽天皇から「青葉の笛」を直々(じきじき)に賜っている。
さて、おごれる者久からずの例えどおり、平氏は雅と権力の道で勢いづいているうちに武道の魂、武士としての謙虚さ、質素さを忘れ、ほとんど藤原氏の轍を踏んでいた。しかも、成り上がっただけにいっそうたちが悪かった。「平家にあらず者人にあらず」と言ってはばからず、やがては密偵を放って悪口を言う者を粛正することまでした。
かような平家に対し反感は益々募っていった。彼らを最も煙たがったのは、朝廷にあって希代の策士と言われた後白河上皇である。治承元年(1177年)の獅子が谷の密議、同4年の以仁王(もちひとおう:後白河法王の皇子)の令旨による源頼政の挙兵、源頼朝による石橋山の挙兵を経て、木曽の源義仲が挙兵に至る。ちなみにもう一人の主人公熊谷直実はこの時は平氏に与(くみ)して戦ったが、以後ずっと源氏に付いている。
義仲にとって貴族ボケしてふやけた平氏の軍勢など敵ではなかった。平維盛(これもり)の大軍を倶利伽羅(くりから)峠において奇策をもって破ると一気に都に攻め込んだ。寿永2年(1183年)のことである。実はこの2年前、平家の総帥清盛が醜怪な熱病にて死去している。人々は悪行の報いあるいは怨念のたたりと噂した。
義仲という京の礼儀とは無縁の田舎者に攻め込まれては何をされるか分かったものではない。平氏の公達はとりあえず京を捨てて西国に走った。しかしながら長年の貴族生活で武道を忘れ、一方で山ほどためた財宝を捨てきれなかった平氏一門の逃亡は無様(ぶざま)そのものであった。絹衣(きぬごろも)の上に鎧甲(よろいかぶと)を重ねるようなものであった。武士の立場から見れば、魂を忘れて成り下がった因果応報とも言えようが、それにしても哀れなことである。一門の中には雅を捨てきれずに京に残った者も居たが、全員義仲に殺された。
この時平氏一門は政権放棄など考えていなかった。むしろ台風を避けるための一時避難程度の認識しかなかった。とりあえず都にほど近い一ノ谷(現在の兵庫県)に陣を構えた。この地は前面を海に、後背を崖に囲まれた要害の地であり、平氏一門はここで窮屈ながらも避難をしていた。そして相変わらず和歌の交換や雅楽などに興じていた。この地を攻めるとしたら前面の海から船で来るか、側面の細い陸地に沿って来るかであった。彼らはこの三方に逆茂木(さかもぎ)を設け、万全の砦(とりで)とした。
この一ノ谷攻めを命じられたのは源範頼と源義経であった。正面から攻めた範頼は案の定苦労したが、義経が背後の崖をかけ下るいわゆる鵯(ひよどり)越えの奇襲をしたため、突然背後を突かれた平氏一門は大混乱に陥り、なりふり構わず我先にと船に乗り込んで沖に逃げようとした。結果として、元服はしたもののまだ未熟な若武者たちが多く討ち取られている。すなわち、経正、経俊、敦盛の3兄弟、通盛、業盛、知章といった二十歳そこそこの面々である。この他に大人では忠度(ただのり)が討ち死に、重衡(しげひら)が捕縛の後打ち首となっている。
ほとんどが戦わずして逃げ遅れて打たれている。これは、回りの家来衆も主君を忘れて我先にと逃げたためである。船着き場で平家の者が主人を捨てて逃げ来る家来衆を、乗船させじと斬り殺していたほどである。
このなかにあってただ一人敦盛は違った。沖に出ていく船に向かってただ一騎、馬を泳がせていたところ、後ろより大音声(だいおんじょう)で呼ぶ声が聞こえる。「やあやあ、そこに見ゆるは平家の御大将とお見受けいたす。敵に背を見せるとは卑怯なり。いざ戻りて尋常に勝負勝負。」義経と共に崖を駆け下りてきた熊谷次郎直実の音上であった。
敦盛はここで逃げ切ることもできた。宗盛なら間違いなくそうしたことであろう。だが敦盛は違った。彼は若く又純粋で、老獪な命乞いなど考える由もなかった。熊谷の音上がこの笛を愛でる青年の体全体に響いた。敦盛はとっさにとって返すと陸に上がり、熊谷と組み合った。しかし敵は百戦錬磨の大男、たちまち組み付されてしまう。
組付したところで首を取ろうと兜を取って相手を見ると、それはまだ自分の息子とも見間違えるほどの若者ではないか。熊谷はなんとか敦盛を逃がそうとする。だがその時味方の軍勢が近づいてきた。最早逃す方法もない。その若者もけなげにも、「もはや勝負はついたり、はよう首を」と覚悟が出来ている様子。熊谷は「もはやそなたを逃す手だても無し、許せ」と、泣く泣く敦盛の首を取った。兜からは香(こう)の香(か)が立ちこめ、携帯物からは漆塗りのいかにも上品な笛が出てきた。
平氏一門に天皇から笛を下賜されるほどの笛の上手な若者が居ることは熊谷も聞いていた。それでこの若者が実は敦盛であると知れた。聞けば昨夜も笛を奏でていたという。この時敦盛数えで17歳であった。戦の習いとは言え、むごいことである。熊谷はこの後、敦盛を手に掛けたことをはかなんで出家に及んだという。私はこの雅と武士道を兼ね備えた悲運の将敦盛に、「無冠大夫」ならぬ「雅大夫」の称号を与えたい。
哀れと言えば、3人の息子を一度に失った父経盛も哀れであった。彼はこの後も生き残り、屋島、壇ノ浦と転戦して行くが、壇ノ浦において負けを見届けると、役目終えたりとばかりに入水(じゅすい)して果てる。最早生きる気力も希望もなかったであろう。この時六十余歳であった。こうして栄華を誇った平家一門は滅び去ったのである。
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