
清洲城址のガイド(地元の古老)が教えてくれた。信長が生まれたのは那古野城だといわれてきたが、最近は勝幡城ではないかとも言われる。ただしこれといった学説はない。名鉄津島線・勝幡駅で降りて徒歩10分~15分くらいだ。
勝幡駅前の案内板には、勝幡城がふたつ書いてある。土地の人に訊いても要領を得なかった。ある人は「さあ?駅前に案内がありますね。」ある人は「橋を渡ってすぐのところにある」といった。
ところが、堤防沿いを歩いていると途中の右下の一角に小さな石碑があった。降りて確認すると、「織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」と書いた石碑①があった。背面には明治23年~安宅~」の文字が認められる。民家の庭の一角のようだった。
教えられた勝幡城址はもうひとつのことだと見当をつけて橋を左へ渡ってあるいたが見つからなかった。城址というと周りに樹木があるという先入観で、樹木のあるところを探して歩いた。人影がないので訊きこともできない。とある一軒家の門を叩いて案内を請う。上半身裸のステテコ姿のお年寄りが顔を出して教えてくれた。西へ歩きすぎていた。
東に引き返し橋を渡ってすぐの右側にあった。最初の勝幡城址から北へ300mの所である。30分ほど遠回でりをしてしまった。
民家横の雑草が生い茂る空き地に石碑②が建っていた。「勝幡城址」と書いてあるだけだった。その横の黄色い案内板には「織田信定築城 1534年5月信長生誕~信長生誕を育む会」とある。なんだか胡散臭い気がした。
帰ってから調べると、①は愛西市、②は稲沢市の管轄でそれぞれ市の文化財指定になっている。②は2010年のことだ。例の町おこしの材料を作ったということか?
話が逸れるが、伊豆の国市(2005年)にある「政子の産井戸」が観光名所になっているが、寺の80歳になる住職に訊くと、「あれは使用人が使っていた生活用の井戸」と真相を話してくれる。
勝幡城址も、この話と似ているのかもしれない。史実と作り話の区別があいまいなのは良くない。信長が生まれたのはどこかは分かっていない。
信秀が今川氏豊から那古野城を奪ったのが1532年。信長は1534年生まれなので、おそらく那古野城でうまれたのだと推測されてきたようだ。
「いや違う。奪取したのは1538年だ。だから信長は、信秀の居城だった勝幡城で生まれたのだ」としようとしているようだ。
- 信長の城 http://goo.gl/aggjEq
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四季の里

勝幡から名鉄津島線に乗り、終点の弥富で近鉄大阪線に乗り換えた。いつものように東青山で途中下車し、次の急行までの1時間をのんびり過ごす。土曜日だったがお盆のためだろうか、人影はなかった。
※総歩数 21578歩 GPSmap 清洲城址3.16km+勝幡城址3.7km+その他5km