
正月三日、いい天気だったので実家から自転車で三輪明神まで自転車散歩することにした。ほぼ東へ一直線で、寄り道をしながらの移動距離はおよそ10kmだった。田原本町を横切り桜井市域の北西部に位置する三輪山(大和盆地の東南部)までのんびりとママチャリに乗って1時間半。田原本町には弥生時代の環濠集落「唐古・鍵遺跡」(1999年国史跡)があることで有名だが、その南の飛鳥川にまたがる地域に多遺跡がある。
多遺跡も弥生時代~古墳時代の環濠遺跡で、その中心部に多神社がある。正式には多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)という。多集落は、古事記を編纂した太安万侶の出身地として知られており、多神社の周辺に小杜神社、皇子神命神社、、姫皇子命神社、屋就神命神社がある。小杜神社の祭神が太朝臣安萬呂で、その隣に遷都1300年を記念した太安万侶の碑がある。
記念碑の東側に鳥居が建っていた。三輪山をご神体とする鳥居だ。多集落の東側を飛鳥時代の筋違道が通っていたという。通称「太子道」とも言う。聖徳太子が斑鳩宮と飛鳥を行き来するときに通った道だそうだ。田園風景の向こうに畝傍山、耳成山がよく見えた。
飛鳥から真っ直ぐ北へ走る道が西側から下ツ道、中ツ道、山の辺の道である。現在の近鉄橿原線、国道24号線が走っているところが下ツ道だったと推測されるが古の面影はまったくない。24号線を東に進むと橿原市域に入る。そこに十市御懸座神社があり、境内に戦国武将・十市遠忠(1497-1545)の歌碑があった。
「かすみきて 天のかぐ山 明きより とをちの里に 春を知るかな」
すぐ近くを東西に152号線が走っている。ここから三輪明神までおよそ4キロ、自転車で20分ほどだ。前方に見える三輪山を目指して走る。
大神神社の由来
神代のむかし、大己貴神(おおなむちのかみ)【大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ】が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおものぬしのかみ)【やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと)】の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまり。本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられている、我が国最古の神社である。大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと呼び、神様の中の大神様として尊崇される。各時代を通じ、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれる。[大神神社公式サイトより引用]
少年時代の思い出
初詣といえば先ずは村の春日若宮神社に参り、同じ境内にある垣内(かいと、小集落のこと)の鎮守神(氏神と同じで神主は熊野権現を祀る)を拝す。除夜の鐘が鳴り始めると神社にでかけ参拝しお神酒をいただいて帰るのが常であった。
都市部の住民の多くは、村の鎮守とは無縁であるため近郊の大きな神社に詣でる。大和南部地方での最大の神社が「お三輪さん」である。直線距離で8km東にあり徒歩での参拝には無理があった。電車か車で出かけるようになったのは中学生の頃が最初だったと記憶する。宗教的意味合いはなくお正月の行事のひとつでしかなかった。楽しみは参詣路に立ち並ぶ出店だった。少年たちが好んで買うのはたこ焼き、お好み焼き、焼きそば、関東煮(おでん)、たい焼き(今川焼き)が定番だった。