小布施

長野は何回か仕事できた。長野に転勤していた先輩といっしょに日帰りスキーに行ったこともある。だが、観光旅行をした記憶がない。善光寺も行ったことがない。

さてどこに行こうかと思って思いついたのが須坂だった。就職した企業の新人研修で一ヶ月滞在したところだ。地図を見ていたら、近くに"小布施"の文字が目に入った。確か"栗"と"葛飾北斎"で有名な町だ。ちょっと訪ねてみよう。そんな軽い気持ちだった。

長野電鉄で須坂まで25分、小布施まで30分くらいだ。青春18切符は使えない。小布施まで650円だ。8時18分発の須坂行きに乗った。途中下車できない切符なので、小布施散策の後で寄ろうと思った。りんご畑の向こうに北信五岳が見えた。懐かしい風景だった。

小布施と須坂の臥竜公園を散策したらお昼頃になるだろう。午後一番に長野を発ち、新潟方面か小諸・軽井沢方面か、あるいは松本方面の列車に乗ればいいと思った。

9時6分に小布施駅に着いた。小布施で何を見たいのか、当てはなかった。駅前の観光案内所で聞いた。小布施観光の案内と地図をくれた。「歴史と文化、山と川のある風景を見たいのですが・・・」と訪ねる。「小布施は農村でこれといった歴史はないのですが、北斎はご存知ですか?」といい、北斎館、北斎を招いた高井何とかさんの記念館などを教えてくれた。

「写真を撮りたいんですが良いところはありませんか?昔の面影を残した宿場町とか街道はないのですか?」と聞く。

「小布施は宿場ではなく何もなかったところで、36年前から"北斎"と街の整備をはじめました。こことここに小路があっていろんな店があります・・・」そういって地図に記しを付けてくれた。しかし、その地図が曲者だった。

手渡された「おぶせの街はスニーカーサイズ」という地図を見ながら、北斎館、高井鴻山記念館、栗の木美術館、小布施陣屋跡、栗野小径などを紹介された。

駅前神宮通りを行けばすぐだというが、車道を歩きたくないので"桜のトンネル"と表示がある道を歩いた。

国道にぶつかり信号を渡れば"栗の紀美術館"だが、それを見過ごしまっすぐ歩く。変哲もない街なのでおかしいと思って土地の人に聞くと、街観光の中心地からかなり離れてしまっていた。

後で分かったことだが、観光の売りにしている一画は数百メートル四方くらいで、端から端まで10分もかからない。それなのに手渡された地図に記しを付けてくれた場所にたどり着けない。同じ道を二度三度と歩く羽目になった。

迷った原因は、車道と小径が同じ幅に書いてあるからだった。「つぎの角を左に行けばよい」と思ったら間違いだ。小径は文字通り路地裏みたいなところだった。民家らしき建物の狭い裏庭を歩いては迷う羽目になってしまった。"栗の小径"と小布施陣屋跡"は土地の人も知らないような場所だった。

路地裏のような小道を除けば、どの道も車が往来していてとてもじゃないが"のんびり散策"などできないところだった。

町の売り物は「北斎館」だと分かったが、その隣は人がたむろする広場で、その奥は大型バスの駐車場だった。車が出入りするので、誘導係りの人が数名いた。周りには土産物屋があり、観光客がたむろするので危ない。

迷いに迷って北斎館にたどり着いたときは、駅から歩き始めて40分が経っていた。まっすぐ来れば10分くらいなのに。強い日差しの中を汗だくになって歩き疲れてしまった。

北斎館横で大道芸がはじまったので暫し見学した。筒状の風船を飲み込む芸や洋装の貴婦人、首から上がない男などが目を惹いた。

ところで、観光案内所の人の話では、北斎は83歳のときに小布施に来たそうだ。北斎を小布施に招いたのが高井鴻山だという。

はじめて聞く名前だった。ウィキによれば、小布施の豪農商で酒造で財を成した家の出という。15歳で京都に遊学し、書道、絵画、国学、儒学、朱子学などを学んだ。

一度郷里に戻り結婚後再び上洛し、27歳のときに江戸に移住した。30代のとき江戸で北斎を知り交友が始まったといわれる。

観光案内の人は「高山が北斎を招いた」といっていたが、ネットで見る限りは、「1842年の秋、北斎が突然小布施を訪ねた。高山は北斎のためにアトリエを建て厚遇し、自身も北斎に入門した」と書いてあった。

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