初夏の日差しがまぶしく、額に汗がにじむ陽気だった。薬師寺は小学校の遠足で行ったがまったく記憶に残っていない。高校生のときに訪れた記憶をまさぐる・・・。 北側の唐招提寺との間は田んぼで、境内には裳腰が印象的な東塔があったのを覚えているだけだ。西塔も金堂も大講堂もなかった。ひなびた寺という記憶しか残っていない。
実家から自転車で田園地帯を横切って近鉄橿原線の笠縫駅まで行った。途中に泰楽寺がある。空海が霊を感じて造営したという心字池の真ん中で一匹の亀が甲羅干しをしていた。各駅停車の電車に乗って約20分で西ノ京駅に着く。

駅を東に出るとすぐ右手に白鳳伽藍があり、その北側には玄奘三蔵院伽藍(1991年建立)が建っていた。玄奘塔北側には、平成12年に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」があった。
薬師寺東塔
白鳳伽藍は昔とまったく異なり、私の記憶にある風景は一変していた。昭和に再建された金堂(1976)、西塔(1981)、大講堂(2003)が豪華な装いをこらしていた。私の記憶にあるのは1300年間立ち続けている東塔のみだった。歴史の重みを感じるたたずまいに感激した。
改めて歴史を調べると、薬師寺が創建されたのは飛鳥時代である。天武天皇が発願(680年)し、持統天皇が完成させた。藤原京跡の南側にその寺跡が残り、「本薬師寺跡」として特別史跡に指定されている。平城遷都に伴い、718年に現在の地(西ノ京)に移転した。東塔が移築されたものか新築されたものかは不明で、現在も論争がある。
※藤原氏の氏寺である興福寺は、山背国山階寺(669)が起源。672年に藤原京に移転し厩坂寺と称した。平城遷都で現在地に移転し、不比等が「興福寺」と名づけた。源平合戦のときの南都焼討ちで大半の伽藍が焼失した。現存する五重塔は1426年頃の再建である。
昭和の再建
再建された西塔、金堂は豪華な建築で上品な青丹に彩られている。"青丹よし"は"奈良"の枕詞だと習った。青丹は岩緑青(マラカイトグリーン)の元になる青い土のこと。丹は土を意味するが、丹頂鶴や丹色で使われる丹は朱色、鮮やかな赤を意味する言葉として用いられる。水銀と硫黄の化合物を含む赤い土である丹に由来する。中国湖南省辰州で産出することから「辰砂」とも呼ばれる。
辰砂は縄文・弥生時代から知られており、水銀を含むために強い殺菌・防腐の効果があることを古代人は知っていたのだろう。春を表す若々しい青色と夏の燃えるような朱色を建物に使うのは華麗に装うためだけでなく、丹の防腐効果のためでもある。それは貴人や権力者の埋葬に丹を使っていることからも推察される。
大講堂
平成15年(2003)に完成した伽藍最大の建造物。西岡常一棟梁が基本設計した。弥勒三尊像(重要文化財)、仏足石・仏足跡歌碑(国宝)が安置されている。また彫刻家中村晋也師が2002年に奉納した釈迦十大弟子の像がある。苦行の末に羅漢となった弟子たちの心や人格、精神性などを具象化した像である。羅漢(サンスクリットarhat)とは、煩悩をすべて断滅して最高の境地に達した人、供養と尊敬を受けるに値する人のことをいう。応供(おうぐ)とも訳される。
大池越しの薬師寺
案内パンフレットやネットで、池の向こうに薬師寺が見える写真がある。通りがかったお坊さんにどこから撮影したのかと聞くと大池の西側だという。西ノ京駅から西へ徒歩15分くらいだというので行った。大講堂、西塔、東塔がはっきりと見えた。カメラマンが数人三脚を構えていた。日が暮れてライトアップされるのを待っているという。私も日暮れまで待って写真を撮ったが、手持ちでは無理があった。
玄奘三蔵会大祭
玄奘三蔵の遺徳を偲ぶ法要が行われていた。奈良時代の芸能である伎楽が奉納され、夜には庭に並べられた約三千基の灯篭に火が灯される。万灯会という。この法要の準備や参拝者のおもてなしを手伝うのが「青年衆」である。青少年の育成の為に昭和40年頃から実施されている。全国から集まる同世代の仲間が、奈良時代から続く寺院の伝統行事に実際に参加し、日本の伝統や歴史を学ぶ。集団生活の中で「他者を思いやる心」を育むことを目的としている。