私の幼少時の写真はほとんどない。家族のアルバムが実家のどこかにあると思うのだが、もう何十年も見たことがない。わずかに覚えている写真のひとつは、母方の伯父夫婦と海水浴場で撮った写真で、5歳くらいのときだと思う。海水浴に行った記憶はなく、写真で知っているだけだ。もうひとつは愛犬のジョンと一緒に撮った写真で、小学生低学年の頃だと思う。この犬は伊勢湾台風の犠牲になった。手作りの墓を作り葬った。それ以降、犬猫を飼う気にならなかった。

両親が亡くなってから遺品を整理する中で、家族の写真がいくつか見つかった。母が晩年によく見ていた写真は、アルバムから剥がされてばらばらに保存されていた。その中の古い写真のひとつは、小学校の卒業写真だ。おそらく高等小学校(卒業時14歳)だろう。背景に写っているのは校舎だろう。見覚えがないので母が卒業した大阪の小学校だと思う。妹が母からなにか聞いているかもしれない。
こちらは二人の祖父が写っている写真だ。初めて知ったのだが、代々の墓を新しく造ったときに親族が50人以上も集まり、記念に集合写真を撮った。その中に母方の祖父もいた。明治生まれにしては二人とも背が高いほうだ。性格には知らないが170cm以上ある。
母方の祖父は元警察官で、退職後は某製薬会社で祐筆をしていたと妹から聞いた。薮入りや夏休みのとき、妹二人は母に連れられて母の実家に行き、私と弟は父方の叔父叔母たちのところへ遊びに行った。だから母方の祖父母や伯父叔母、従兄妹たちのことは妹のほうが詳しい。
私が覚えている母方の祖父はいつも背筋がピンと伸びていて、目がギョロッとしていた。毎朝、庭で褌一丁になって冷水摩擦をしている姿が、祖父の象徴的な姿である。
父方の祖父は、村の人気者で「トラタ~ン」と呼ばれ、誰からも慕われていたのだと思う。早くに父親(私の曽祖父)が亡くなり、家長として6人の妹を育てたと聞く。私がもの心ついたときには大叔母たちは、大阪、寝屋川、岸和田、和歌山、高知に住んでいたが、年忌やお盆の時にはみんな墓参りに帰ってきた。私はイトコだけでなくハトコたちとも遊ぶ機会を得た。夏休みには、ハトコの家(大叔母の家)に何日か滞在し、毎朝ラジオ体操に連れて行ったもらった思い出がある。
家長として威厳があり、子供たち(私の父、叔父叔母)は厳しくしつけられたと聞く。しかし、私が覚えている祖父はいつもニコニコして笑顔を絶やさないような優しい祖父だった。祖父母は明治大正時代には珍しかった恋愛結婚だったと聞く。嫁に入った母はその話を村人から聞き「義父母はドレアイだった」といっていた。戦前の女学生たちの隠語(いまでいうJKコトバ)で、ド恋愛を略してドレアイと呼んだらしい。
左の写真は、昭和30年代に撮られたものだと思う。お正月に座敷で火鉢にあたって寛いでいる祖父母だ。火鉢で祖母が焼いてくれるカキモチが何よりの冬のおやつだった。決まったお小遣いをもらえない子供時代、駄菓子屋でアメやセンベイを買ったり、紙芝居を見るときのお菓子を買うときは、祖母にねだったものだ。
母が亡くなって始めて知ったのだが、1960年(昭和35年)に撮られたビデオがあった。大阪在住の叔父が帰郷したときに撮ったものだ。カメラはなにか知らないが、8ミリフィルムで撮ったもので、これを映写機で写したスクリーンをビデオカメラで撮影したものだった。精度は非常に悪いが、当時の雰囲気は伝わる映像である。
調べてみると、「8ミリ映画」(通称8ミリ)は1932年にコダックが始めて販売したが、日本で家庭用に使われるようになったのは1965年頃だという。富士フィルムがシングル8、コダック社がスーパー8を発表したのが1965年であるから、それより5年も前に8ミリを買って撮影していた叔父は相当な初物買いだったわけだ。私がはじめて8ミリを買ったのは、それから20年後の1980年である。
ここに掲載したビデオは、昭和35年正月と38年のお盆に撮られた映像である。私が中学に入った頃のことだが、叔父が8ミリを撮っていたことは覚えていなかった。その頃、実家には蓄音機があった。叔父がまだ実家にいた独身時代に買ったもので、一番若い叔母が実家で聞いていた。
私が中学生の頃、叔父は新しく買ったテープレコーダを置いていってくれた。友達を呼んで、みんなで録音して聞いた自分たちの声に驚いたものだ。また、叔父は当時の大型オートバイも置いていった。たしかスワローという750cc(ナナハンと呼んだ)のオートバイだった。中学生で当然無免許だが、それに乗って村の近辺を走った。村の駐在さんは「気をつけろよ」というだけで、無免許運転で検挙するようなことはしなかった時代だ。空気銃も貸してくれて、雀や鶫を撃ったがまったく当たらなかった。
こうして書いていると、少年時代に多くのことを叔父から教えられていたのだと気付き、いまさらながら叔父に感謝する。その叔父もいまはいない。

昭和35年に撮影された8ミリを見ると、牛の姿がある。この頃にはまだ裏庭に牛小屋があり、農作業に牛を使っていたことが分かる。牛を散歩させ、草を食べさせるのは私の仕事だった。
この3年後の昭和38年には、裏庭に2階建ての家が建ち、牛小屋はなくなった。しかし、鶏小屋はまだあったことが分かる。鶏卵で、当時肉は高価でほとんど食べられなかったので、卵は貴重な動物性たんぱく源になった。とはいえ、一家6人が毎日卵を食べられるわけではなかった。鶏は3~5羽くらいしかいなかったと記憶する。卵を産まなくなった鶏は、祖父が捌いて家族で食した。カシワと呼んで、年忌や祭のときなどのご馳走になった。
新築した家は、祖父母の隠居用で、二階には大叔母(祖父の二番目の妹)が住む予定だった。大阪に嫁いだ大叔母は、戦争で夫を亡くし、戦後まもなく一人息子もなくして独りになり、故郷に戻ってきた。祖父が妹を不憫に思い、隠居を兼ねて建てたが、大叔母は遠慮して戻らず、向かいの元庄屋だった家の門を入ったところにある使用人用の離れを借りることになった。一度家を出た女は二度と家に戻らないという律儀さ故だった。空き部屋となった2階には私が住むことになり、大学1年生までの数年間の棲みかとなった。